|
「葉月さん、来てないですねぇ」
桂木城が楽しそうにそう言った時、そこにいた人間すべてが、きっと悔しいと感じたに決まってる。
それは誰もが口にしたがっていた言葉。誰もが、いつ言うのが最も効果的なのか、ずうぅっとはかっていた、隆一朗が姿を現したその瞬間から、みんなで牽制し合っていた言葉なのだから。
だがしかし。
本日成田空港よりアメリカ合衆国のどこだかに旅立ち、この先二年やそこらは戻らない予定の松宮隆一朗は、いいかげんにした方がいいくらい大勢の見送りの人間の中に『彼女』の姿がないことを後輩に指摘されても大幅な動揺は見せなかった。
いつものように、ふざけて笑う。大幅にふざけて、さみしそうな顔をして。
「来てくれないでしょ、葉月ちゃんは」
「空港来ちゃうと泣いちゃうからかなぁ。葉月さん、あー見えて、けっこ感情出しますもんね」
「何があー見えてよ。見たままじゃない、葉月は」
「日本語は正しく、よ。城くん。葉月のどこ見たら冷静とか言えるのよ。雰囲気に流されて言葉使わない」
「冷静とか言いました?」
「バカだな、桂木。オトナにはオトナの別れ方ってのがあるんだよ。こんなとこでオレたちと一緒にごたごたしててどーする。ねぇ、もう二人っきりでしんみりと別離のディナーとかしちゃってるんでしょー? 松宮先輩」
「あのねぇ」
大して芝居がかった風でもなく、隆一朗は息をついた。
空気だけじゃなくて、詰まり放題の何かを吐き出すみたいな重さ。
「別離のディナーも何も。オレ、葉月ちゃんにはもう二ヶ月も会ってないんだよね。ちゃんと言うと、話をさせてもらえないってなるけど」
「二ヶ月?!」
「え、何それ。おまえら、終わってんの?!」
「そうじゃないけど」
「だって二ヶ月も会ってなくて、それで続いてるって言うか?!」
「声がおっきくてうるさい上に、非常に失礼だ、小林。それでもオレたちは、あ、もう行かないと」
搭乗アナウンスに、隆一朗は救われていた。
危うく彼らしくない計算ミスをしでかすところだった。
やっぱり少しはナーバスになってる。
空港のこんな空気、日本を離れるということ、一人になるということ。
――同じ空の下だと言っても、それは違う言葉で人々が指を差す空なのだ。
それは怖いところ。そんな遠くに行くなんて。
「それじゃっ、どなたさまもお元気で。気をつけて帰ってくださーい」
「バカ。気をつけるのはおまえだろ」
「オレじゃなくてパイロットかも。そういう意味で言ってんの。先輩は運転荒いから」
「おまえがそれ言うか?」
「言いますよー。少なくとも廃車なんてマネはしてません」
エスカレーターを下りて右に曲がり、その姿は見えなくなった。なってしまった、という事実が、私たち見送り班一同に影を落とす。
ここにとどまったところで状況は変わらないし、変えたいわけでもない。
隆一朗は別に誰かが強制されたわけじゃなくて、自らの強い意志でもって、私たちから離れて行くんだ。
なんて愚痴っぽい言葉を選んでいるんだろう。雰囲気に流されて言葉使うなって、私も叱られるべきかもしれない。
この出発ロビーという場所がまた、なんともそういう空気なもんだから。
「そいじゃ行きますかね」
ありがたき柴田先輩の導きに従い、みんなはそろってぞろぞろと動き出した。
行きはいいけど、帰りがなー。それは誰もがいつだって思うことだ、小林。
隆一朗出発の連絡を様々なルートで受けて、バラバラに集まった一同は、おもむろに同窓会系盛り上がりに移行しつつある。こんなことでもなければこんな風にはそろわなかったメンバーだから、このまま別れるはずもない。
話題の中心は、まぁだいたいは隆一朗。
これからどんどん違う名前がとび出すことになるとしても、今はまだ。
さて。
「先に行ってて。寄るとこあるんだ」
「え。寄るって? こんなとこでどこに」
「後で話す。お店、レンラク入れてね」
口を挟ませるスキを与えずに、私は列を離れて走り出した。肩を掴まれそうな恐怖なんかを感じたりしたけど、実際にはそんなことはなかった。
まぁ、かなり不審だけど、そこまでして問いただすほどでもない。
とにかく、後で話すということで。
後で。
私の役目が終わったら。
桜田葉月はヒコーキに背を向けて座っていた。
頭に入ろうはずもないのに、ハードカバーの本などを両手で持っている。
ゲルマン民族史。うわ。
「葉月」
「え、あ? あれ? なんで。どうして?」
『絶対に見送りに来た人間が通るはずのないところだから』選んだはずの店に、座っていた時間については、後ほど聞いてみるとして。
私はカバンからお届けの品を取り出し、差し出した。
ぴたりと、葉月のパニックが終了する。
私は指定通りにいつもよりも低い声で、ドラマみたいにつぶやいた。
「隆一朗からの最後の手紙だよ」
葉月の手は震えなかった。
私はイスを引いて、向かい側に座る。
折りたたまれた便箋が開かれる前に、ウェイトレスさんがオーダーを取りに来た。
そんなものはどうだっていいから、考えもしないでコーヒーを。
こんな場面こそドラマで見ていた。そういう時に人はとりあえずコーヒーなのだ。
無言のまま、もしかして息もしてないんじゃないかと思うくらい、静かに目だけを動かしている。
ずいぶん長い手紙だ。しゃべる量が多い人間の手紙は、やっぱり長いのだろう。
届いてしまった飲む気にならないコーヒーに、砂糖だのミルクだのを忘れたまま手を伸ばしたとき、ぐしゃりと手紙が、いや手紙を、葉月の手が握りつぶした。
ぐしゃりなんて、見るも無残な姿にしてしまったその紙よりも少し上の空間に視線をすえて、葉月はきっぱりと宣言をする。
「隆一朗、殺ス」
隣のテーブルの善良そうなおじさんが、ゆっくりこちらに首を回すのが見えた。
いちばん早くに隆一朗に会ったのが、私、平坂依子だった。
一緒に来た連中はなぜだかみやげものやさんの中。お店の外でなぜだか雑誌をチェックしていた私の肩を、隆一朗は指一本で三回叩いた。
「静かにね」
何を言わせるよりも前にそう言って私の言葉を閉じ込めて、自分も沈黙のまま歩き出す。人のいなさそうな、とりあえずはさらに奥の通路に入ったとこで立ち止まり、まだ小さめの声で言うことには。
「よーちゃんで良かった。それだけが賭けだったんだ」
「何が? どしたの? なんで荷物ないの? 隆一朗」
「荷物はもう預けた。頼まれてくれる? よーちゃん」
その時にはとても重要に思えてた私の変な質問に律儀に回答したのは、頼みごとをする立場だったからだろう。
やけにさわやかな色のジャケットのポケットから、やけにきれいな封筒が取り出される。ぴしっと厚紙でも入れられているような美しさ。
そう言えば昔から、勝手なとこ几帳面な性格だった。
「葉月に渡して。これが最後になると思うって言って」
「サイゴ?」
「そうしようと思ってる」
私は隆一朗のなんでもない顔を見つめたまま、いろいろなことの意味がわからなくなっていた。
私の右手の指で挟まれているその手紙、は、私が葉月に届ける手紙で、最後のって?
耳どころか語感を疑う。
万が一そういうことがあったとするのなら、こんな隆一朗を、私が見るはずはないからだ。
そんなバカな。そんなはずは。
――ない。絶対に。
「よろしくね」
「じゃあこれで、貸し借りチャラだね、隆一朗」
「今日これから始まるよーちゃんの大仕事を考えると、きっとオレが借りてることになるって。遊びにきなね、返すから」
「おう」
いつまでも私を幼名で呼び続ける男は、見慣れた笑顔をもひとつ増やして、今では飛行機の中の人。
きれいなスチュワーデスさんに熟考の末のコーヒーなんて手渡してもらって笑っているかもしれない。
私は私の前に冷めていくコーヒーを見て、その向こうの手紙と葉月に目を移した。
「二ヶ月も何してたの? あんたたち」
「それまで知らなかったんだよ、私」
「隆一朗が行くつもりだったのは知ってたでしょ。ずっと言ってたんだから」
「だけど具体的に手配始めるときに聞かせてくれたっていいじゃないって思ったんだもん。全部決まってから言うの反則だよ。すごいムカつくーっ。あのバカーっ」
どんなルールで付き合っていたのかまでは知らないけど、外から見ている私としては、言いたいことを言えない隆一朗というのは、なかなかにキョーミ深い。
だけどそんなことは言うわけにはいかない。それは私のルールに反則だからだ。
「手紙、見てもいい?」
言ってみるもので、葉月はなんでもなくうなずいた。
封は解かれて私に戻ってきた手紙に、私はしわを伸ばしながら目を通した。
長いと思って見ていたけれど、読んでみればそれほどの量じゃない。
ブルーグレイの気取ったインク。意外ときれいな字は変わらない。
とりあえずの滞在先住所と、連絡方法いくつか。
そして、雑談。
内容が近いことばかりのとこみると、まともに向き合っていない二ヶ月の間、隆一朗の方はこうやって手紙でお話していたんだろう、なんてわかってしまう。
健気だな、なんか。ひどいな、葉月。
などと思いながら、次の便箋に行ったとこで、
「怒るよねぇっ?! よーちゃんだって。逆なでしてるって思うよねぇっ?!」
あぁ、そうかもね……。
私はあきれて窓の向こうの高い空を見上げた。
薄すぎて白に近い青色の中を、また一機、飛行機は飛んで行く。
最後。ふうん。
まぁ、バカかな、確かにこれは。
いわくありげに思わせぶりに。
考えてみれば、隆一朗のオハコなのだった。
本当はみんなの前で手紙を預けてあぁ言いたかったに決まってる。どうして私一人にこんなことを?
少し考えたら答えが見えた。つまり、私が借りを返してなかったからだ。そして、葉月を任せられるのが私だからだ。
何が、『よーちゃんで良かった』。『こんなにうまいことよーちゃんに会えて良かった』、と言うべきでしょう、隆一朗。
あぁ、ややこしくて回りくどくて面倒くさい男。
最後のスペシャルを私限定に仕掛けたことに免じて、友達でぐらいはいてやろうなんて、まだまだ怒ってる彼女の友達の私は思っているのだった。
もう砂糖を溶かす力もないコーヒーに、なんと手なんかつけながら。
追伸
これは僕が日本語で書く最後の手紙になります。
今後、ワタクシからの愛の言葉を授与するためには、英語を学んでいただかなくてはなりません。
葉月、さん、の英語の成績を良く知った上でこのようなことを申し上げるのは誠に心苦しいのですが、
その点、甘やかしすぎたなー、などと、自分の将来を推し量る能力の低さに、嘆息するばかりであります。
しかし同時に葉月さんの恐ろしいまでの国語力から、ほとんど無理に近い暴挙でもって、潜在能力には期待しておりますので、期待させた以上は裏切らないで下さいますよう、よろしくお願い致します。
追伸以上。また会いましょう。
松宮隆一朗
|