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祥子は退屈だった。
子どもが幼稚園に行くようになり、1人の時間が出来始めたからだ。
初めは、妙な開放感があり、うれしかった。
だが、日がたつに連れ、その中途半端な時間を、祥子はもてあまし始めた。
カルチュアークラブに通うような金銭的な余裕は無い。
ある日、パソコン好きの夫が
「常時接続に変えたから、時間に関係なくネットが利用できるぞ」
そう言い、祥子にも操作の仕方を教えた。
祥子は、次第に夢中になっていった。
オークション、懸賞、次々とトライし、そして、ある日投稿サイトがあるのを知った。
真面目な内容のものもあれば、危険な匂いのするものもあった。
「主人は、可もなく不可もなく幸せなんだけど、何かが足りない」
「毎日同じ事の繰り返し、ときめくが欲しい」
そんなコメントに祥子は共感した。
(まったく、その通りだわ。)
夫の恭平は穏やかで、やさしい人間だった。
時には、洗濯や掃除までしてくれる。
祥子の友達は、みな羨ましがったものだ。
だが、何かを買うのも、どこかへ行くのも、祥子が言葉にしなければ実現しなかった。
自分から行動をするタイプではないのだ。
たまにで良い、「○○へ行くぞ!」そう言って家族を引っ張って欲しい、祥子はそう思っていた。
共感は、ため息になり、やがて嘆きに姿を変えていった。
かと言って、出会いサイトで誰かを・・・という気にはなれなかった。
嘆きのまま、時が過ぎていくだけだった。
ある時、子どもに習い事を・・・という事で、スイミングに通う事になった。
もちろん、決定は祥子がした。
恭平は、「それが言いと思うなら、そうしたら?」と言っただけだった。
水を怖がる子どもに、指導員の太田は、根気よく接してくれた。
「かっこいいね〜、ダンナとは大違い」
そんな声が、見ている母親達からあがっている。
日焼した肌、引き締まった体、笑顔、どれをとっても素敵だ。
小さな水着は、目のやり場の困るほどだった。
(確かにかっこいいけど、それがどうなる訳でも無いし・・・)
祥子は、少し冷めた気持ちでいた。
それが、一変する出来事があった。
祥子の子どもが、プールの深い部分に落ちたのだ。
「あっ!」
と思った瞬間、太田が飛び込んで大事には至らなかった。
だが、ほんの一瞬の出来事が、祥子の脳裏に焼きついた。
水にもがく子ども。
華麗なフォ−ムでためらいも無く飛び込み、子どもを抱きかかえて上がってくる太田。
滴り落ちる雫と、「もう、大丈夫だよ」と言うやさしい声。
太田は、祥子にとって、危機を救った勇者に代わったのだ。
祥子は、勇者にお礼を考えた。
(若い人だから、Tシャツがいいかしら)
デパートで品定めをする時、妙にウキウキした気分になった。
(Tシャツより、あの肌に合うアクセサリーがいいワ)
自分達には決して使わないような金額のものになってしまう。
(でも、康平の命の恩人なんだもの・・・)
祥子は、自分の思いを否定するように、命の恩人という言葉に頷いた。
喫茶店で品物を渡す時、祥子はときめいた。
服を着た太田はまぶしかった。
祥子は、自分の感情に戸惑った。
太田が犬を買ったいる事に、やさしさを感じ、自宅が比較的近い事に喜びを感じ、そしてサーフィンをする事に少女のように憧れを感じた。
それとなく、彼女の存在を確かめると「今は、居ないんです」という答えだった。
祥子は、自分の気持ちが高まっていくのを感じた。
だが太田にとって自分は、スクール生の母でしかない。
そして、太田は26歳、自分は32歳なのだ。
湧き上がる思いと、それを否定する現実に祥子は揺れた。
「あの〜、お礼のお礼といっては何ですが、来週、海に行くんですが、康太君を誘っても良いですか?」
太田の声に祥子は我にかえった。
「もちろんです」
連絡はメールでという事にし、祥子はアドレスを聞いた。
祥子のアドレスは教えていない。
だから、祥子からメールを出さなければ、太田は連絡してこないだろう。
(なんて書こう・・・)
ためらいつつ、入力し始める。
文字が形になっていく。
(これじゃ、ラブ・レターだわ)
慌てて、文章を考え直す。
遠慮がちに、お礼なんて気を使わないで・・・としながらも、お邪魔じゃないなら、康平が喜ぶと書き、心のどこかでもう一度誘われるのを期待した。
太田からの返事には、邪魔になんて思いませんから・・・という言葉と待ち合わせの時間と場所が書いてあった。
何を着ていこう、美容院にも行かなくちゃ・・・口紅も買おう。
忙しくなった。
へそくりを使い、祥子は自分を磨き始めた。
それは、忘れていた自分だった。
心が弾み、すべてが明るく感じる。
時がたつに連れ、その思いは大きくなっていく。
それが、切なさに変わり、祥子はあの腕に抱かれる自分を思った。
恭平が、「何か良い事でもあったの?」と、まぶしそうに祥子を見ながら言う。
「別に・・・」
もっと何か言いたそうな恭平を、祥子は無視した。
後ろめたいような感情は確かにある。
だが祥子は、その気持ちにあえて蓋をした。
それほど太田を思う自分の姿は甘美だった。
平日の海は人影もまばらで、風が心地よかった。
パラソルの下に座り、波と戯れる太田と康平を見ている。
それは、祥子をとても満ち足りた気分にさせてくれた。
太田の友人が何人かいたが、嫌な感じは無かった。
祥子は、ここに自分がいる事に喜びを感じていた。
子どもを産んだにしては、まあまあな自分の体。
人目を引くとまでは行かないが、それなりの水着。
甘く、爽やかな香水の香りを漂わせ、祥子は、太田と康平に近づき微笑みかける。
引く波の力によろめいた時、太田の腕が祥子を支えた。
それだけで祥子は胸がときめいた。
(帰りたくない。現実には戻りたくない。)
傾いていく日差しに切なさを覚え、祥子は太田を見つめた。
まっすぐで誠実な眼差しが帰ってくる。
だからこそ、誘いに応じたのかもしれない。
祥子の心は貪欲になった。
もっと近くに・・・、もっと寄り添って、もっと太田に密着したい。
子どものように一途な思いに、とらわれていた。
太田にそっと寄り添ってみる。
祥子の思いに気づいているのか、太田は微笑み返す。
それだけの事で、胸がいっぱいになる祥子だった。
帰らなければいけない時間になってしまった。
太田の運転は、比較的安心できる。
車内には太田と祥子と康平しか居ない。
他の友人は、泊まりこむようだ。
太田はどうするのだろう。
祥子たちを送ったら、海へ戻るのだろうか。
祥子は、切なかった。
現実に戻りたくなかった。
「康平は、すごく楽しかったみたいよ。ぐっすり眠ってる。」
このまま帰るのは嫌だった。
「コーヒーでも買わない?」
祥子は、そう言ってドライブインに車をとめさせた。
店内で飲み物を買って出てくると、暗がりに止めた車の外でタバコを吸う太田の姿が見えた。
(康平に気を使って今まで我慢してたんだわ)
そう思った祥子は、足早に太田の元へ進んだ。
そして、目の前に立ち、潤んだ眼差しで太田を見つめながら、コーヒーを渡した。
「今日は、楽しかったですか?」
「ええ、とっても。海は久しぶりだもの。帰りたくないくらい・・・。」
体を寄せる祥子に、ためらいがちに太田の腕が廻り、2人は抱きあった。
ほんのひと時なのだが、祥子は、身も心も舞い上がった。
(もう、止められない。このまま・・・)
だが、太田はそっと手を下ろすと、照れたように笑い、車に乗ってしまった。
(どうするのかしら・・・)
戸惑いながら座る助手席。
無言の太田。
重い空気が流れるまま車は進み、二人の住む町についてしまう。
(そんな・・・)
祥子の心は沈んでいった。
そして、祥子の家のそばまで来ると、太田は車を止めた。
(仕方がない)自分にそういい聞かせると、祥子は言った。
「・・・今日は、どうもありがとう。楽しかったわ。」
軽いため息のあと「今度、ゆっくり会えれば・・・」
低く呟くように太田は言った。
「じゃあ、メールで・・・」
喜びで祥子の声が上ずった。
康平を起こそうとする祥子を太田は止め、その体を抱きしめた。
唇が重なり、祥子は悶えた。
(ここではダメ。家が近すぎる)そんな言葉が脳裏をよぎる。
背中に背負った康平は重かった。
一歩一歩進むうちに心も重くなっていく。
恭平はもう帰ってきていた。
背負っている康平を見て「重かっただろう」と、やさしく言い受け取って部屋へ連れて行ってくれた。
やさしくされたくなかった。
妙にツンツンしてしまう祥子に恭平は、尚更やさしかった。
「シャワー、浴びてこいよ。飯は、もう適当にしたから・・・」
恭平には、スイミングスクールのお友達と海へ行ったことにしてある。
どうやら、疑われてはいないようだ。
だが、一人になると、募る想いと後悔とが入り混じり、涙が出てきた。
(どうしよう・・・。でも、ダメだわ。止まらない)
太田から、自分の行動は不謹慎な事は解かっている。でも、会えるものなら・・・というメールが届く。
祥子は、すぐに返事を書きたかった。
夏休みにはいれば、康平を、恭平の実家へ行かせられる。
電車で2時間かからない所だから、泊まらせてもいい。
普段なら、姑に子どもを預けるのを好まない祥子だが、この際仕方が無い。
恭平と相談をして、2〜3日泊まらせてみようという事にした。
何も知らない恭平は、「久しぶりに2人になれるのか〜。どっか行くか?」などと言っている。
「悪いけど、久しぶりに会いたい友達がいるのよ。子どもがいると、夜は、めったに出られないじゃない?」
祥子は、着々と計画を進めていく。
太田にも事の様子を知らせた。
そして夏休みに入った始めの土曜日。
恭平の運転で康平を連れて行く事になった。
一晩は、家族そろって泊まり、そのあとは2〜3日康平1人で泊まるという事だ。
祥子は気が進まなかった。
だが、今まで康平1人で姑のところに泊まった事は無かったので、仕方が無い。
車内でも祥子は太田の事を思い、上の空だった。
恭平の里は、田舎というにふさわしく、山すその畑に囲まれた所で、近くには川もあった。
家に着くなり挨拶もそこそこに、康平は川へ行きたがった。
祥子も、この家の中にいるよりはと「すみません。わがままな子で・・・」と、康平のせいにして、川原へ行く事にした。
日差しは暑いが、川風が心地よい。
祥子は、先日の海の事を思い出していた。
ここに太田が居たら・・・。
「祥子!何、ボーっとしてんだ!康平が1人で川に入ってるぞ!」
恭平の声に八ッとして顔を上げると、康平が川に入って手を振っていた。
「康ちゃん危ないから、もっとこっちにおいで」
そう声をかけたと同時に、康平が転んだ。
というより流れに足を取られたのだ。
小さな康平はころころと転がり、自分で立ち上がれず、このままでは深みの方へ流されていってしまう。
「キャー、康平、康平」
祥子の叫び声の横を誰かが走り抜け、川に入っていく。
石に足を取られながら、必死に康平の元へ駆け寄ろうとしているのは恭平だった。
その間にも康平は流れに翻弄されていく。
プールとは違うのだ。
どんどん康平が離れて行ってしまう。
深さはそんなに無いはずだ。
恭平のひざより少し深いくらいのはずだ。
だが、流れの強さに恭平まで、足を取られた。
恭平は、川底を蹴りながら、必死になって康平の方へ行こうとしている。
祥子はオロオロするだけだった。
人を呼びに行くという知恵さえ浮かばない。
康平の姿を見つめ、(恭平、お願い、がんばって・・・)そう祈るだけだった。
恭平は何とか康平の手を取る事は出来た。
だが、浅瀬へと戻れない。
大きな石に何度かぶつかるようにしているうちに、やっと立ち上がれた。
急いで康平を石の上に押し上げる。
再び流されないように、石にへばりつくようにして自分も上がる。
ヨロヨロしながら、康平の水を吐かせ、人工呼吸をしている。
祥子は、呆然と見ているだけだった。
(恭平が、康平を助けた。あんなにヨレヨレになって・・・。恭平が・・・。)
太田のようなスマートさは無い。
だが、必死になって、我が子を助ける様子は力強く、衝撃的だった。
誰が呼んでくれたのか、救急車がやって来た。
祥子は立って居られなかった。
太田のことを考えていたからだ、そう自分を責めた。
恭平が、祥子を抱き寄せて言う。
「大丈夫、康平は無事だよ。念のために検査しておくって先生が言ってたよ。」
寄りかかる肩の広さに、男の逞しさを祥子は感じた。
涙が溢れてくる。
(この人は、なんてやさしい、そして強いんだ。私は、いったい何を見ていたんだろう。)
祥子は、恭平の中の強さを知った。
そしてそれは自分の中のもろさを知ることでもあった。
祥子は自分から、恭平を求めた。
愚かさや寂しさを埋めるかのように抱かれたかった。
そして、今までとは違う恭平を感じた。
強く、祥子を包み込むような恭平を感じたのだった。
スイミンググクールに通うのは止めた。
太田には、感謝の意味のメールを書いた。
そして、恭平のために新しい香水を買った。
康平のママから、女に変わるための道具として・・・。
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