桜霞 小説    れお

 ひとーつ、ふたーつ、跳ねる毬。
 薄紅色の花びらは、はらはらと散りながら乱れ落ちていく。薄い、薄い、花びらは、舞い踊りながらも音は無く、次々と視界を覆いながら、地面に降り積もっていく。
  みぃーつ、よぉーつ、跳ねる毬。
 柔らかな薄紅色の陰影に、 覆い隠された世界には、何が潜むのか。
  いつーつ、むっーつ、跳ねる毬。
  覆い隠された世界から、何が来るのか。
  ななーつ、やっつー、跳ねる毬。
  小さな僕に、分かるはずも無くて。
  ここのーつ、とおー、跳ねる毬。
  気付いた時には、攫われていた。
  ころころと、転がっていく毬だけが、僕が、そこに居た事を知っている。「何を考えている?」
男が僕に話し掛けた。
「別に何も。」
僕は答えた。
  外には、数え切れないほどの桜の木。
 一斉に咲き誇り、我先に、と、思い切り良く散って行く。空が薄紅色の陰影に染まり、そのわずかな隙間から、樹の肌や、他の緑が微かに覗いていた。
「何を見ている?」
男が僕に問い掛けた。
「別に何も。」
僕は答えた。
 あれから幾日が、幾月が、幾年が、傍らを通り過ぎていったのだろうか。
 僕の時間は、僕にとって意味を失った。
 僕の心も、僕の体も、僕の意志も、全てが僕にとって意味を失った。
 意味を持たせ続ける意味が無く、苦痛でしかないなら、捨ててしまう方が、楽だったから。
 いっそ、無であった方が、幸せだったから。
 
 男の手が、僕の顎を捕らえた。顔を上げさせられ、唇を合わせさせられた。生暖かい感触と、鼻先をかすめる匂いが、それが現実と伝える。

  言葉など、無い。
 思いやりなど、無い。
 愛など、無い。
  男の指が、僕の体を巡って行く。
 輪郭を、鼻を、口を、頬を、男の指が巡って行く。
 僕の何に触れたいのか、切なげな瞳が、僕の目とぶつかる。
 僕は、黙って見返すだけだった。
 男の指が、首を、肩を、腕を、巡って行く。
 僕の何に、触れたいのだろう。
 僕から何を、引き出したいのだろう。
 甘い声を出し始めた僕に、何の不満があるのだろう。
 男の瞳に写る自分を見ながら、僕は何時も不思議に思う。
 僕にとっては、何の意味も無い時間が、僕の体の上を通り過ぎていく。
 はらはらと散っていく桜の花びら達が、そんな僕達を見ていた。

 鏡の中から、僕が僕を見ている。
 痩せた体。
 白い肌。
 黒い髪。
 黒い瞳。
 こちらを見ている僕に、男は何を求めているのだろう。
  僕には、分からない。
 ひとーつ、ふたーつ、数を刻みながら跳ねて行く毬。
 過ぎ去って行く時間は、僕の姿を変えて行く。
 何故、男は僕を手放さないのだろう。
 僕は、それを待っているのだろうか。
 疑問が、不意に浮かんでは、風に飛ばされ消えて行く。
 ひとーつ、ふたーつ、跳ねる毬。
 跳ねて転がる毬の行き先は何処なのか。
 答えなど出しても、得る事がかなわぬなら、考えるだけ無駄なのだ。
 僕は、静かに目を閉じた。
 桜の花びらは、散り続ける。
 辺りを埋め尽くすほどに散り続ける。
 男の瞳は、坂道を池に向かって転がり落ちていく毬の様に、日を追う毎に追いつめられた色を濃くしていく。
 しかし、僕には、もう意味を無くさせるものなど、何も残ってはいなかった。
 これ以上、僕にどうしろと言うのだろう。
 男の指が、いつもの様に、僕の体を巡り始めた。輪郭を、鼻を、口を、頬を、男の指が巡って行く。男の追いつめられた色の瞳が、僕を捕らえる。
 男の指が、首、で、止まった。
 喉を、男の大きな手が、絞めつける。
 ああ。
 それが残っていたか。
 僕は、感動すら覚えながら、喉元にかかる負荷を味わった。
 男の瞳に、僕が写る。
 僕の瞳に、男が写る。
 男の瞳が語るものが何なのか、僕には未だに分からない。
 空を染める、桜の花びら。
 ひとーつ、ふたーつ、跳ねる毬。
 息が詰まるほどに、隙間なく、舞い踊る花びら。
 みっーつ、よぉーつ、跳ねる毬。
 むせるほどに確かな存在の花びら達は、地に落ちて、消えて行く。
 男の指が、僕の喉から離れていく。
 僕の身体が転がる。
 僕の時間が、転がり始めた。
 僕の意味は、この転がる先に有るのだろうか。
 何処の誰であるのかも、何歳であるのかも、 性別すらも意味の無い、自分、と、いう存在を掴む断片すら得られなかった、この僕の意味が。
 後に残された男が涙を流す。
 僕には意味の無い、涙を流す。
 はらはらと舞い踊る、薄紅色の花びら達が、世界を覆い隠して消してゆく。