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もう二十年近く昔の話になるが、結婚して家を出た私が、新婚旅行から帰って間もなく、実家の父が初めて私たちの新居を訪れたとき、父は、手土産に上等の牛肉を携えて来た。結婚するまで、ずっと自宅で暮らしていた私は、親の管理から自由になった嬉しさと好きな人と暮らせる喜びに舞い上がっていて、大学の卒業もそこそこに、東京湾を挟んで実家とは正反対の地に位置する町に構えた新居での暮らしに、すっかり夢中になっていた。
父は、その日、娘夫婦とすき焼き鍋でも囲みながら、手塩にかけて育てた愛娘が一人前に家庭を持った姿を肴に、好きな酒でもゆっくり飲もうと、ささやかな楽しみを胸に牛肉を買ったのだろう。だが、二十三歳になったばかりの私は、そんな父親の気持を少しも分かっていなかった。父の来訪は、夫婦水入らずで過ごせるはずの楽しい週末の邪魔物でしかなく、新婚家庭にのこのこと牛肉をぶら下げてやって来た父の鈍感さを、私は嫌悪した。だが、父は鈍感などではなく、感受性の鋭い人だった。そして、哀しいほどに娘を愛した人だった。だから、表向き歓迎の言葉を連ねながら、内心では迷惑がっていた私の心を察し、夕食をともにするつもりで買ってきたはずの牛肉を置くと、父は、にこやかな笑顔を残し、長居をせずに立ち去った。父が、二度と娘の家には行かない、と泣きながら母に気持を語ったという話を私が聞かされたのは、父が亡くなってからのことだった。
私には何も言わないまま、父は、その後もふらりと遊びにやって来た。孫が生まれると、その回数も増えた。そして、その都度いつも、父は上等の牛肉をぶら下げて来た。子どもが生まれてからは、父の来訪を迷惑に思う気持はなくなったが、私は慣れない育児に奮闘していて、ついぞ父の気持に気づかぬままだった。父が毎回携えて来た上等の牛肉。「お父さん、今日は一緒にすき焼き鍋でもしませんか?」この一言を言えぬままに、十一年前の年の暮れ、私は父を見送ることになった。
今年も残すところ二週間となった年の瀬の父の命日に、私は久しぶりに実家を訪ねた。父亡きあと、未婚の母となった妹とその娘、そして母の三世代の女三人が代々木のマンションで暮らしている。荻窪の自宅を出た私は、駅ビルの地下で、お供えにどら焼きの詰め合わせを買い求め、ふと思い立って、どら焼き屋のすぐ隣にある肉の専門店に足を向けた。高級銘柄の牛肉のブランド名をしるした幟が店先にはためく肉屋の店頭で、私は、普段のわが家の食卓には絶対に上らない、最高級のすき焼き肉を買った。赤身に細かく脂肪が混じる、舌の上でとろけそうな霜降り肉を銀色のトレーから取り分けて包んでいる店のおばさんの手元を眺めていたら、場違いな熱い気持がこみあげてきて、私は慌ててまばたきをしなくてはならなかった。一万円札に小銭を足して代金を支払い、どら焼きと牛肉の包みをぶら下げて、私は、駅ビルを出てJRの改札に向かった。歩き出した途端に、どっと熱いものが溢れてきた。顎を上げて、強くまばたきを繰り返しながら、人に怪しまれるじゃないか、と私は自分を叱咤した。父が、どんな気持でいつも牛肉を買っていたのか。生活にいくらかの余裕を持つようになった私は、高級牛肉を手土産にした父の気持を、初めて分かった気がした。母と妹と姪っ子と。チビのくせに大人並によく食べる姪っ子が好物だと言うすき焼き鍋。今夜は父を偲んで、母たちに美味しい肉を食べてもらおうと思うと、ほのぼのとした温かさが心に広がった。
暖房の効いた電車のなかで、せっかくの肉がちょっとでも傷んでしまいやしないかと気が気でなくて、私は扉の近くに立つと、できるだけ肉を外の冷たい空気に当てるようにした。牛肉の入った肉屋の袋をぶらぶらさせて歩く父の姿が脳裏に浮かび、マスカラが滲んで眼の周りに黒い輪を作っているんじゃなかろうかと心配になった私は、扉のガラスに顔を映して見ようとした。明るい昼の光が反射するガラス扉に私の顔は映らず、ビルが建ち並ぶ都会の景色が慌しく流れ去るのが見えた。
実家に着き、お仏壇の前に座り、お仏さんの日にこんなお土産はおかしいのだけれど、と母に牛肉を渡すと、「あらぁ、いつも、あなたのところに買って行ったっけね」と、母は素っ頓狂な声を上げた。そして、「お父さん、今日は、娘がお肉を買ってきたんですってよ」と、ひときわ大きな声でお仏壇の父に話しかけると、冷蔵庫に肉をしまってくるから、とやけに勢いよく立ち上がった。ゆっくりしていけば、と言う母に、子どもが間もなく学校から帰る時間だから、と実家をあとにした私は、父が生きていたら、どんなにか牛肉の手土産を喜んだだろうと思い、帰路の電車のなかでも、ぱちぱちと眼をしばたかせ続けた。父にすき焼き鍋をご馳走してあげたかった、と遅すぎる親孝行の念にせっつかれながら、今年の父の命日を過ごしたのだった。(了)
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