雨の匂い   小説    千輝


 普通に幸せだった。製薬メーカーに勤める5歳年上の夫、今年小学校に入った一人息子と贅沢ではないけれど、楽しく幸せに暮らしていた。だけど、毎日家をキレイに掃除し、食事の準備をする毎日・・・主婦仲間の友人と、育児や夫の愚痴ばかりが話題になるお茶会に、少し寂しさを感じていた。幸せだけど、何か物足りなさを感じていた。
 雨の続く6月、乾かない洗濯物が部屋を占領して、外出もなんだかおっくうで、する事もなく向かっていたパソコンで"ネット上で友達を捜しませんか"そんな言葉を見つけた。インターネット上だけで友達探しが出来るようだ。「素性をあかす必要もないし…」自分にそんな言い訳をしながら、「え〜っと、希望の関係は『メル友』、年齢は…別に逢うわけでもないからサバ読んじゃえ『25歳』、職業は…『看護師』、『既婚』、、」などと独り言をしゃべりながら、プロフィールを入力して、メールを待つことにした。
 次の日、夫と子どもを送り出し、早めに家事を済ませてパソコンに向かった。本当にメル友なんか見つかるのかなと半信半疑だった私もビックリするほど、たくさんのメールが届いていた。しかし「二人で逢いませんか?」「写真を送って下さい」そんな交際目的のメールばかり。やっぱりこういうのって出会い系なんだなと諦め掛けながら読んでいた12通目のメールに目が止まった。
 「神戸市に住む28歳の販売員です。実はバツイチです。恋愛などは考えていませんが、その日あったこと、ちょっと聞いて欲しいこと等を話せる相手を捜しています。もし良かったら返事を下さい」
 北九州に住む私とは距離もあるし「この人だったらいいかも」などと勝手にいい人だと判断して、早速返事を書いて送った。
 「はじめまして、メル友になってください」
 それから、彼とのメール交換が始まった。彼は仕事で深夜帰宅することが多く、メールの数は多くなかったが、それでも丁寧に、その日の出来事、趣味など毎日メールが届いた。朝パソコンを開くと彼からメールが届いている。そんな小さな事が嬉しくて、そしてまた彼にメールを送ることが日課になっていた。1ヶ月が過ぎる頃には、お互いを名前で呼び合うようにもなっていた。ただ、私は彼に嘘の名前を教えていた。彼は私に何を隠すわけでも無かった。自宅の住所・電話番号・勤務先、、、。なのに私は、何一つ教えることが出来なかった。
 ある日、「声聴いてみたいなぁ。電話は無理?無理なら別にええねんけど。明日は仕事が休みやから、良かったら家に電話してきて」そんなメールが届いた。その日は夕食の時もベッドに入ってからも、電話のことで頭がいっぱいだった。
 次の日、電話の前で何度も何度も深呼吸をして、教えてもらっていた彼の電話番号にダイヤルした。たった数秒のコールが何倍もの時間に感じた。「もしもし?」彼の声だった。想像していたよりずっと大人っぽい静かな声だった。「もしもし?ホントに電話掛けちゃった・・」ドキドキしながら話しかけると、「え?マジで?うわ、超嬉しい!」さっきまでとは別人のように明るい声が返ってきて、私を安心させた。実際に話すのはそれが初めてなのに、昔から知っている友達のように、いろいろな事を話した。忘れていた気持ちに、綺麗な色が付いたような、そんな不思議な気持ちになった。
 それからというもの、彼の休暇には必ず電話をするようになった。内容は大したことではない。彼の仕事の話、最近見た映画の話、友達の話・・・。いつしか、彼の休暇を心待ちにするようになっていた。でも、そんな気持ちを隠すかのように、夫にも息子にも愛情を持って接した。そうすることで、自分にブレーキを掛けていたのかもしれない。
 彼を知り合ってちょうど2ヶ月が過ぎた、夏の雨が降ったひに、「もうすぐ誕生日だよね。直接逢ってプレゼントを渡したいんだ。俺、会いに行っちゃダメかな」彼に告げられた。年齢も嘘を付いたままだし、それに正直逢うのは怖かった。「逢ったりするのはよくないよ。私結婚してるし。」そう答えた私に、「馬鹿やな、テレビの見過ぎ。逢ってプレゼント渡すだけやから」彼は笑って言った。そして、「来週の土曜にチケット取ったから。18時には○○ホテルに着いてる。無理には言わん。逢いたいと思ったら来てくれたらいいから」彼はそういって電話を切った。
 その日がやってきた。夫は前日から出張で留守にしていた、翌日までは帰らない。息子も夏休み最後の想い出作りに実家に泊まりに出かけていた。朝から降り続く雨、私は家でじっと時間が過ぎるのを待っていた。  「会いに行っちゃいけない」そう思いながら、でも何も手に着かず、落ち着かない時間を過ごしていた。
 「今着いたよ。1107号室。待ってるから」
 彼からのメールだった。もう何も考えることが出来なくなっていた。
 「逢いたい」
 自分の心の声が何度も耳の中で聞こえたような気がした。考えるより早く、傘を片手に雨の中をかけだし、空車のタクシーに手をあげた。ホテルについて、エレベーターに乗り、1107号室のドアの前で、小さく震える手を握りしめて小さくノックをした。ゆっくりと開いたドアの向こうに、彼が立っていた。初めて見るはずなのに、どこか懐かしい感じがした。小柄な私とは対照的な、日に焼けた肌と茶色い髪が印象的だった。  「思ってた通りだ。理想を絵に描いたら君みたいになるよ」そんなくすぐったいことを言いながら、彼はゆっくりと近づいて、そして私を抱きしめた。「ずっと逢いたかった」聞き慣れた彼の声が、身体にしみ込んでくるようだった。彼はゆっくりと私を抱き上げ、ベッドへ降ろしゆっくりと、そして深いキスをした。それからの私たちに言葉はなかった。
 初めて逢った人とこんなふうになるなんて、2ヶ月前の自分に想像できただろうか。いや、今朝の自分にすら想像が出来なかったはずだ。でも、このときはそんな頭で考えるような余裕はなくて、もっと深い部分、もっと奥の部分に溶けていくようだった。
 それからどれくらいの時間が経っただろう。彼はゆっくりと起きあがり小さな箱を取り出した。小さなプラチナのクロスのペンダントが入っていた。彼はそれを私の首に付けて言った。
 「自分でも戸惑ってる。もう人を愛することなんか無いと思ってた。それも逢ったこともなかった相手だよ。ただ、今は君に支えられてる。暗い家に帰って、君からのメールが届いていると、それだけで温かい気持ちになる。君の家庭を壊す気はない。君が手に入らないことも解ってる。それでも、君を愛してる。これからも支えて欲しい」

 あれからもうすぐ1年になる。彼は私より2歳年下。なのに彼は私を年下だと思っている。いつも包み込むような彼の態度が心地よかった。
 今も私たちの関係は続いている。もちろん彼には名前も年齢も告げていない。彼は月に一度ほど会いに来る。彼が会いに来る日は決まって雨が降る。いつも彼とホテルの窓から見る景色はいつも雨だ。雨が降ると彼に逢いたくなる・・・

  夫との幸せな生活も続いている。私はこの2つの幸せを手放す気は無い。