蒸し暑い。俺は傍らに置いたウイスキーを少しだけ口に含んだ。こんな夜は決まってあの夏の路地裏を思い出す。
もう20年も前、定職にもつかずに毎日イラつきながら過ごしていた頃。久し振りにありついた日払いのバイトの帰りにこれまた久し振りに飲んだ酒。
暑さと疲れも手伝って俺はかなり酔っていた。
急にこみ上げた吐気に絶えかねて路地裏に走りこんだ。目に入ったのはヨレヨレの帽子を目深にかぶり壁に背を預けてうずくまっている浮浪者風の男と・・・コーヒーカップ(?)。
遊園地でよく見かけるコーヒーカップ。・・・少し地面から浮いている。(バカな。)自嘲したとたんにまた吐気がこみ上げた。
吐きながら横目で見ると、確かにそこにはぼんやりとした光に包まれたカップが静かに、そして僅かにゆれながら浮いている。口元を腕でぬぐいながら今度は正面から見据える。淡い黄色の中、大人2人がゆったり座れるほどの大きさ。見ていると締め付けられるような懐かしさと一緒になぜか涙があふれ出してきた。
いつの間にか男が立ち上がり、カップに近づいていく。「おい・・・、」言葉をかけようとしたがなんと言っていいのか思いつかない。男はカップに乗った。ゆっくりと。
何も出来ずにぼうっと立っている俺に男が優しく微笑みかけた。『アンタも乗るかい?』目で尋ねてくる。まだ涙が止まらないまま俺は首を振った。
彼は小さくうなずくと前を向き、ひざの上で手を組んだ。
カップは静かに回りながら更に浮いていく。1mほどの高さに上がった辺りで底の辺りがかすみ始め、やがて男を乗せたまま路地の暗闇に溶け込むように消えていった。
路地にぽつんと取り残された俺はあわてて振り返った。数m後ろには繁華街の雑踏。酔ってはいるが幻覚を見るほどじゃない。確かにあれはそこにあったし、男はそこにいた。
この話は未だに誰にも話してない。秘密と言う訳じゃないが、どうせ誰も信じやしないだろう。
結婚して5年、女房・子供と3人暮らし。あの路地裏にはあれきり行ってない。恐い訳じゃない。
今度は迷わずに乗りそうだから・・・。 |
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