1.
人生なんてものは、冗談と偶然でできあがってるだけの代物なのかも知れない。
などと、この少女ジェミネが思ったとしても無理はなかった。そのぐらい、その出会いは冗談であり、偶然だったからだ。
書店でぶつかった相手が王子様だったなんて、誰が信じるよ?
しかもジェミネは「仕事」にかかる寸前で、ちょうどぶつかってきたその厄介野郎に見咎められたので、余計に腹が立って仕方がなかったのだった。
「あ、ごめん」
背中に肘を当てられて思わず前のめりになったジェミネの手から、万年筆が転がった。それをポケットに放りこもうとした、まさにその瞬間にドツかれたのだ。
床に転がった万年筆は、それに気づいていなかった店長に悲鳴を上げさせた。高価なペンは、繊細なのである。ちょっとした衝撃で、ペン先がイっちゃうのである。
「ごごごごごごごめんなさいっっ!」
ジェミネは、ここ一番の表情は心得ている。顔は今3ぐらいだが、その表情にほだされない者はいない。……が、金までは免除されなかった。万年筆は見事に成仏していたのだ。
「何ドル?」
それを救ってくれたのが、この王子様なのだった。
王子様というのは、比喩ではない。
確かに見た目も王子様だが、コヤツが自分で名乗ったのだ。
「小さい国だから知らないだろうけどね。アルツハイメンの第七王子ワシュレイというんだ。今日一日遊びたいから、付き合ってくれないか?」
ロー○の休日じゃあるめぇしよ、王子様。しかも相手がこんなスリのあばずれ少女で良いのか、いや良いわけがない、反語。
ジェミネは、彼の国というのはイエローピーポーの止まる場所か? と考えたが、それでも冷静になってみようと思って、彼を観察したのだった。
少年らしさの残る、坊ちゃん坊ちゃんしすぎてない髪型。柔らかなプラチナブロンドだ。絶対に名のある美容師の作品に違いない。
それに翡翠のような瞳。純粋無垢って感じ? ああイヤダイヤダ。
肌は透き通るような、シミ一つない、キメの整っているもの。毎日、何時間風呂に入っているのだろうという感じである。髭が生えたところで、髭すら恥ずかしがって抜けて行きそうだ。
それに何十ドルもした万年筆のお金を、こんな見ず知らずの人間の代わりにポンと払ってしまった。現金でなくカードという辺りがまた坊ちゃんぽくてすごい。しかもサインが手慣れていた。
転じて、自分の容姿。
女であると自己主張するように伸びた黒髪は、伸ばしているのではない。勝手に伸びたのだ。でもちょっとウェーブしているのが大人っぽいので実はそんなに嫌いじゃない。んだが、毎日シャンプーするような気合いも金も持ち合わせていないので、汚れ気味ではある。
青い目。できればアーモンドの形の瞳が良かったのに、自分の目は少し丸すぎる。幼く見られるのは嫌いだ。舐められるから。
肌も黒いし。スパニッシュな自分はそこまで黒くないからと慰めてもらえるが、やっぱり「売る」んだったら金髪に白い肌が一番「高い」に決まっている。だからせめてプロポーションだけは整えなければと思うので、ウォーキングとトレーニングは欠かさない。ジムに行くような金はないから、寝る前にしているだけだけど。
まだ、本当に売ったことはないけれど。
「あんた何歳よ?」
問われ、ワシュレイが穏やかに微笑む。って、アルカイックスマイルってやつかよ、おめー! と、やっぱり内心、身悶えするジェミネだった。
が、ここが公の場カフェであり人の目もあるので、行動や表情にはいっさい出せない。個人テーブルで向かい合わせであっても、誰が見ているか分からない。ジェミネは小さく咳払いをしてカフェラテをすすり、気分を元に戻した。
「17歳と半年」
「そ」
ジェミネは素っ気なく返事をしたが、やっぱり内心叫んでいた。そんな可愛い叫び声でなく、雄叫びみたいな感じで。こいつのどこが17やねーん! と、言いたい。声を大にして言いたい。
しかし確かに身長があって顔はちょっと童顔だが面長だ。体つきがほっそりしていて雰囲気もはかなげなので、幼く見えるのだ。とはいっても実はジェミネの方が一つ下なのだが。
「私なら絶対に売り飛ばす」
影でボソリと呟いたジェミネの言葉を、気の良いお坊ちゃまは聞いていなかった。
「何?」
「何でもないわ」
「君は幾つ?」
「レディに年を聞くもんじゃないわよ」
ツンとしたジェミネの答えに、その時ワシュレイの顔に侮蔑の色が一瞬浮かんだように見えて、ジェミネはかっとした。
「何よ、私みたいなのが自分をレディなんて言ったらおかしい?」
突然少女の剣幕が激しくなったので、ワシュレイは慌ててしまった。
「違うよ、すれたものの言い方をするのが何だか……」
「何だか? 何よ」
「あの……可愛いって思って」
「はぁ? 万年筆の件はお礼を言うけど、そんなおべっかを使われても何も出ないわよ、私」
せっかく高い万年筆が裸で陳列されてる良い穴場だったのに、もう二度と行けないし。というのは、間違っても口にしないが。
「だいたい見ず知らずの私にお金を出してくれるなんて、何かの魂胆があるとしか思えないわ。でも私なんて何の役にも立たないわよ」
そこまでジェミネの言い分を聞いたワシュレイは何か納得したようで、先ほどとは違うニュアンスで微笑んだのだった。その余裕を持った笑みがやっぱり気に食わなくて、ジェミネの顔は尖ったままだが。
「なら正直に言うよ。僕は今、追われている。……というと大袈裟だけど、執事を騙してホテルを抜けてきたんでね、見つかりたくないんだ。夜には戻ると書いてきた。だから夜まで一緒に遊んでくれる子が欲しい。君はそのための人だ」
しごく当たり前のことを言っているように聞こえるが、充分イっちゃっている。ジェミネはどのタイミングで彼にカフェラテをぶっかけて去れば良いかと思案したが、そんなジェミネの思惑をよそに、坊ちゃんの言葉はどんどん異世界を紡ぐ。
「第七王子だからね、王位継承権にはほど遠い。そういうお家騒動はないから、安心して僕の相手をしてくれると良いよ。支払いも全部僕が持つ。君は、ただ付き合ってくれるだけで良い」
「……胡散臭すぎますが」
「なら、君があの店でしようとしたことを正直に店長に述べた上で、君に万年筆代を請求するだけだから良いよ」
異世界の中に、急に現実が混じった。
ジェミネは息を止めてしまった。思わず飲んでいたカフェラテが鼻にまわってしまい、しばらく咳で目を白黒させてしまった。その後は、顔が真っ青になるやら真っ赤になるやら。カラフルな一日だ。
「知っててぶつかって来たの?! あんた!」
思わず席を立って大声でわめいてしまったジェミネは、店内に気づいて身を固くした。注目を浴びている。
目立たないように生きてきたというのに。
「出ましょ、ワシュレイ王子様。ここじゃ会話に向いてないわ」
「どこでも、そんな会話に向いているとは思えないけど」
「良いから」
ぼんやりとしているように見えて、飛んだ悪魔だ。しかも悪魔はにっこりとつけ加える。
「“王子様”なんていらないよ。ワシュレイって呼び捨てにしてよ」
うるさい。
2.
で、結局どうなったかといえばジェミネは彼の言うなりになるしかなく、しぶしぶ観光に付き合わされているような次第だった。
「こんな昼間の時間にうろついてる子なんて、学校に行ってないかサボリかのどっちかだろ?」
しれっとワシュレイは聞いてくる。
「失礼ね、学校には行ってるわよ」
「じゃあ後者だ」
ぐうの音も出ない。
「で、万年筆をずっと物色してた。書き味を試すでもなく、ね」
ずっと観察されていたらしい。ジェミネはうなるしかなかった。
こうして奇妙なデートが始まったのだ。
それこそ、映画のように。
あれは何ていう映画だったかなぁとジェミネは考える。アパートに一つだけある腐ったテレビが映していた、シンデレラストーリー。街のあばずれが金持ちに拾われて綺麗になっていくなんて、そんなこと、現実にあるわけがない。
だからジェミネは、自分に起こっているそれも夢だと思うことにした。
「まぁまぁ綺麗になりましたよ! とっても可愛らしいこと!」
一流ブランドのお洒落な店長が自分を誉めるだなんてそんなこと、現実なわけがない。鏡の中の自分らしき女の子だって、到底これが自分だとは思えなかった。
黒髪はこれまでになく最高に、艶やかに光っている。ウェーブが強調してあって、これでワシュレイと同じブロンドだったら、間違いなく童話のお姫様だ。髪を半分留めている髪留めが宝石のようにキラキラしている。
膝丈でノースリーブのワンピースは、可愛すぎず大人すぎない、微妙な色気があって。淡いピンクなんて人生上、一度も着たことがなかったというのに。けれど一時間前に自分が着ていたグレーのTシャツとGパンは「雑巾」と言われて捨てられて、これを着るしかなくなっていた。
「強引だったかい? ごめんね、でもそうでもしないと君は着替えてくれそうになかったから」
さほど悪いと思っていないような彼の口調が、癪に障る。けれどいちいち怒っているのも疲れると察して、ジェミネは怒りを抑えることにした。
今日一日なのである。こいつのお人形になっておけば服も貰えて美味しいものも食べられるのだ。明日には夢だったと思えば良い。その頃に、この坊ちゃんがホテルにいようが異国にいようが病院にいようが、自分には関係ないことだ。
ジェミネは、たまには早起きも面白いなぁと思っただけだった。
学校には、ほとんど行っていない。悪友がいるのでたまには顔を出すけれど、夕方から深夜まで続くレストランのバイトだけで、くたくたになってしまうので、朝は寝ていることが多い。体を売る方が手っとり早く金になることは知っていたが、ジェミネはそこまでのふんぎりが付かないでいる。
飲んだくれの父か病気がちの母のどっちかが死んだら……。そしたら自分は開放されるのだろうか? と思うことがある。
そうしてドレスアップしたジェミネを連れて、王子様は街のすべてを吸収しようとせんばかりに、精力的に動いた。時々、少し疲れたような様子も見せるので「無理しないでよ王子様」とジェミネは揶揄したものだったが、それでもワシュレイの行動力は落ちなかった。
教会やら図書館、博物館に、かと思えばアミューズメントパーク……。
「あっ待って。ここは、ちょっと」
ジェミネは言いよどんだ。知った顔がいる可能性があったからだ。
大通りからは少し奥まった場所にある大きなゲームセンターだが、ゲーセンであることには違いなく、ジェミネが持つ空気と同じ、すえた臭いが漂っている。ワシュレイには似つかわしくない。
それに自分のこの格好を見られたら、何を言われるか。どちらかといえば、その気持ちの方が大きい。
「あっちに行きましょ」
名残惜しそうにしているワシュレイを引っぱるジェミネだったが、それが手遅れだったことに気づくのは、その直後だった。
「よう。ジェミネじゃねぇか」
3.
ジェミネは、自分の口に押しこまれるサラダボウル一杯の苦虫を感じた。
まだアイツやアイツでないだけマシだったかーという思いはぐるぐるするものの、目前に立った人物にだって見つかりたくなかったことには違いない。
男は寸法の合わない改造バイクをふかしながら、ヘルメットを脱ぐところだった。
「改造」と「ヘルメット」が妙にアンバランスなのだが、昔ノーヘルで誰々が死んだとか何かで、そういう部分に律儀なのだ。の割には、格好はライダースーツなどではなく、汚いGパンと肩までまくりあげてるTシャツだったりするのだが。
中から出てきた茶色い頭と日焼けした顔は、案外と普通である。
自分じゃ良い男だと言いはっているヤツなのだが、その辺ジェミネは、このベルスという男は普通よりちょっと下と厳しく評価していたりする。以前にバイクに乗ってる時だけ良い男だよと言ったら怒られた。ヘルメットをしているのだから。
「何だよ、お綺麗なカッコして。デートか?」
ジェミネは何と言えば良いのか言葉なく、取りあえずベルスを睨むしかなかった。しかし、そんな険悪な空気をぶち壊してくれたのはワシュレイ本人だった。
天使のようなニッコニッコの笑顔で、ベルスに右手を差しだしたのだ。
「初めまして、ジェミネの友達だね。僕はワシュレイ。彼女に危ないところを助けてもらったんだ。お礼も兼ねて僕のおごりで、今日一日の観光をお願いしたんだよ」
「は、はぁ??」
あまりに場にそぐわないワシュレイの天使笑顔と天使声に、ベルスは毒気を抜かれたらしい。ジェミネは内心、気持ちは分かるよとベルスの肩をぽんぽんと叩きたい気分になった。こいつはこういうヤツなんだ。
まだ2〜3時間しか一緒にいないが、ワシュレイの天然さ加減を掴みつつあるジェミネだった。
で、王子というところだけ伏せて上手く説明しちゃったワシュレイに、ベルスはすっかり気を許したようだった。
というか相手が全額持ちの観光というのが、おいしすぎるためである。
「用心棒だよ用心棒」
などと言って嫌がるジェミネを説きふせてしまい、ベルスはまんまとワシュレイに取り入ってしまったのだ。ワシュレイの方もあいかわらずのノホホン顔で、
「遊び相手は多い方が楽しいよ。僕、友達っていなかったから」
とベルスを受けいれてしまった。
何だか思わず疎外感を感じてしまうというものである。だって仮にも男女のペアだったわけだし、どこの病院のお世話だか知らないが、見た目は見目麗しい坊ちゃんだし金は持ってるし。それが急にジェミネだけポイされたような空気になってしまったのだ。
ワシュレイはそれに気づいたのかどうか知らないが、
「行こうよ」
とジェミネに手を差しのべてくれた。でも、素直にその手を掴む気にはなれなかった。
ベルスという男の正体を知っているためもある。
ただの遊び人、自分と同じ、ただのサボリ野郎に見えるが、犯罪まがいのことだってやっている。ワシュレイに近づいたのだって何を考えているか分からないのだ。
自分は、学年は違うけど同じ学校だし裏街道にも少しは顔があるので、ベルスに殺されるようなことはないだろう。だが彼がワシュレイに対してカツアゲや誘拐をやらかしたら、それを止めるだけの勇気と力を、ジェミネは持っていない。
意気揚々と意気投合して(いるように)見える2人の背中を追いかけるジェミネは、呪文のように「自分には関係ない」とくり返した。
4.
清潔なポロシャツと白いスラックスを着こんだ坊ちゃんと、高級ブティックのワンピースにすれた顔を乗せている、金メッキのお嬢さん。それに汚いGパンTシャツで一緒に歩く、ヤンキー兄ちゃん。
どう考えてもそれは変なメンバーで、ジェミネは街を行く人々が半径2mは退いているような気がした。
夕食はネクタイ着用だからと気軽に言って店に入り、ぽんと着替えてしまう辺りも恐ろしい。
そしてワシュレイのカードを確かめた店長の顔色が変わる辺りも、なお恐ろしい。ついでに言えば、揉み手するその小指を立てるの止めろオッサン。
ジェミネは着替える男2人を待つ間、呆然とするしかなかった。店内に設けられた本皮のソファに座ると、尻が埋まった。まっすぐちょこんと、なんて座れるわけがない。ジェミネは金メッキを全部はがし落とす勢いで足を投げだし、だらんと寝そべって退屈な時間を過ごしたのだった。
チップスでも買っておけば良かったかと思ったのだが、夕食の楽しみが半減するのも、もったいない。ああ、でもせめてガムでもあれば良かった。
良い感じにお腹も減っている。自分の感覚で言えばマクディナルド辺りでビックチーズハンバーガーにコーラと行きたいところなのだが、今日はヤツがご主人様だ。
ベルスも、あまりにぶっ飛びすぎているスポンサーの金銭感覚に目を回しているようで、今は大人しい。ジェミネはこのまま何もなく終わってくれよ、と、店の窓から見える夕日に祈るばかりだった。
するとそこへ、同じく仕立て待ちで待機している店長のオッサンが近寄って来た。脂ぎった顔にカマっぽい笑みを浮かべて、目はジェミネを値踏みしているような嫌らしい目で……。
嫌悪感を持ったジェミネは、さりげなく体を起こして足を揃えた。
「何の用?」
オッサンはジェミネのはすっぱな口調に、目を丸くしていた。だらしない格好だったのに、お嬢様だとでも思っていたのだろうか。ジェミネはオッサンの審美眼のなさに思わず笑ってしまった。
その笑みに釣られたのだろう、オッサンもにしゃあっと笑った。
「おとぼけにならないで下さいよ。お忍びであることは承知致しておりますから」
「は?」
「アルツハイメン王朝ワシュレイ皇太子様でございましょう。先日のテレビで拝見したばかりでございます」
世界が揺れたような気がした。
ジェミネは目眩で額を押さえた。
あのビョーキ坊ちゃんが本当に王子様だった?!
クレイジーな一日だとは思っていたが、ここまで見事にぶっ飛んでしまうと、人間は何のリアクションもできなくなるらしい。ジェミネはうつむいたまま固まった。
どどどどどどどうするんだ私、落ち着け落ち着け落ち着け、何を言えば良いんだ? いや、何も言わなくて良いのか、っていうかそれを私に確認して、このオッサンはどうしたんだ、何を考えて──……!
「……何をお望みですの?」
あ、私ハリウッド女優になれるかも。と、ジェミネは一瞬、馬鹿なことを考えた。
切りかえされた余裕のある微笑みに、オッサンは明らかにひるんだ。ただの小娘ではないと見てもらえたようである。
オッサンは低い背をさらに縮めて、目尻を垂れ下げ、声をひそめた。
「大したことではございません。ワシュレイ殿下とのお写真を撮らせて頂きたいだけなのです。あの、できればサインも頂きたいのですが。店内に飾りたく……」
お断りします。と、喉まで出かかってからジェミネはとまどった。
そんなことを決める権限は自分にない。
けれどワシュレイは(本当か嘘か知らないが)追われていると言ったし、お忍びだと言った。でもでも、そんなワシュレイを追うような人なんて見当たらないし、今までずっと普通に街を歩いてきたし……。
決めかねたジェミネは立ちあがって2階に上がった。廊下に向かい合う部屋の一つをノックする。個別で、仕立ててもらった服を合わせていくのだ。一発でワシュレイにヒットした。
手早く説明したジェミネに、ワシュレイが扉を開けて応答した。いいよ、と。
「そんなの断ってゴネられるよりは、写真一枚で済む方が楽だからね。出たら写してもらうよ。あ、ジェミネやベルスも、皆で撮ってもらおう」
黒いタキシードに身を包んだワシュレイはさらに男前を上げており、それを見たジェミネの目に星が飛んでしまった。プラチナブロンドと黒の調和が美しすぎる。それをいろどる翡翠の瞳が、綺麗すぎる。
その姿の前には、付け焼き刃な格好をしている自分が恥ずかしくてならなかった。ジェミネは顔をそむけて、
「簡単な話ねぇ」
と吐きすてた。
この王子様はもしかしたら、ベルスのこともそう思って同行を許したのかも知れない、などとと思いつつ。それでなかったら、自分とだけ付き合ってくれていたのかも知れない。
その考えを振りきるように、ジェミネはワシュレイを睨めあげた。
「お忍びなんでしょう? 写真なんて撮られて良いの?」
だがワシュレイはあいかわらずのアルカイックスマイルで、まったく動じていない。
「良いよ。もうすぐ終演だから」
ワシュレイは詩的な表現で「夜」を強調した後、突然、仕立て師を部屋に残して扉を閉め、向かいの壁にジェミネを押しつけた。
「な?!」
叫びそうになったジェミネの唇は、塞がれてしまった。顎に手をかけられて、抱きしめられて──。
ファーストキスではない。
けれど恋人などというものを作らずにバイト三昧だったジェミネにとって、それはとても久しぶりに味わう感覚だった。
久しぶりの。けれど、初めて感じる感触だった。震えるぎこちない性急なファーストキスと違い、もっと穏やかで優しくて柔らかで……切ないキスだった。
「ん」
堪能してしまっている自分に気づいて、ジェミネは声を上げてワシュレイから離れた。精一杯、睨みつける。
「何のつもりよ」
「何のつもりだろう?」
ワシュレイは寂しそうに笑った。
「ジェミネ、一目惚れって信じる?」
それが答のつもりらしい。ジェミネはワシュレイを押しもどして、小声で、しかし鋭く、
「信じないわ」
と言って階段を駆けおりた。
写真に写った自分の顔がどんなだったのか、ジェミネは見たくもないと思った。
5.
「さぁ次は君の番だ」
と言われ、ジェミネは倒れそうになった。
この格好──ピンクのワンピースのままで夕食に行けるのかと思ったら、さらに着替えろと言われたのだ。思わずジェミネは、
「ええ〜。まだご飯にありつけないの〜」
と泣き言を言ってしまった。
いい加減に振りまわされ続けて、身も心も疲れてしまった。そろそろゲームオーバーにして欲しい。
あのキスで自分の中に生まれてしまった「何か」が、育ってしまう前に。
早く消えて欲しかった。
黒のフォーマルで男前を上げたのは、ワシュレイだけではなかった。
ベルスもまた、これなら良い男って自負しても良いよと認めてあげられそうなぐらいに、格好良くなっている。元々、身長はあるのだ。自分の磨き方を分かってなかっただけなのだろう。
ジェミネがそう言うと、
「同じ言葉をそっくり返してやる。良いからドレスアップして来い」
などとベルスまでもが、ジェミネの着替えを即して来たのだった。頼むよもう勘弁してよご飯が食べたいよジャンクフードで良いからさ──と言うだけ言ってみたが、聞き入れられることはなかった。
「何さあいつら、変に意気投合しちゃって。ドレスルームで何か話でもしたのかしら?」
ジェミネはぶつぶつと呟きながらも一時間、美容師にされるがままになっていた。その間に出張してきたブティックの店員が、ドレスを用意して去って行く。
どこがお忍びだとわめきたくなる、まさに最高級の豪遊だった。この先、一生、絶対に経験しない遊びであることだけは間違いない。
出てきた完成品のジェミネを見て、最初に反応したのはベルスだった。下衆な口笛だったが。でもジェミネは、それが彼の最高の賛辞なのを知っている。
ヒールの高くて細い靴が歩きにくくて、ジェミネはゆっくりとしか動けなかった。それをワシュレイが手を差しのべてサポートした。
「背筋を伸ばして。顎を引いて……。なるだけ一直線上を歩くみたいに、まっすぐ足を出した方が揺れないよ。階段を降りるみたいに、つま先から降ろして……そう」
一緒に並んで歩いてくれるワシュレイの腕に掴まり、自然と2人の歩調が合っていく。ベルスがおどけながら美容院のドアを開けてくれて、ジェミネはドレスの裾をつまんで外に出た。
美容院にいる全員が微笑ましさと羨望を讃えた目で2人を見送っていたことには、気づかなかった。
美容院を出てすぐの通りに、黒塗りの大きな車が待ちかまえていた。レストランからの送迎車だという。
洋服店かどこかから予約でもしたのだろうか。彼は携帯電話を持っていない。ジェミネは怪訝に思った。しかし自分が気づかなかっただけなのだろう。多分。
ジェミネは、その車をまじまじと見つめて戸惑った。
「ベ、ベンツ……? あ、いや違う、ロールスロイスだっけ??」
ワシュレイは笑っただけだった。
車の中にはシャンパンが用意されていて、ベルスは一足お先に出来上がりそうな様子だった。
しかしジェミネは、ドレスで腰を締めつけられているのもあって、グラスに手を伸ばす気になれない。ワシュレイも同じように、シャンパンに口を浸けていなかった。
「今日はありがとう」
ワシュレイが2人に微笑んだ。
「このディナーが終わったら、お別れだ。2人とも素性の分からない僕にここまで付き合ってくれて、感謝しているよ」
「よせよ、甘ちゃんだなぁ、お前」
ベルスがシャンパングラスをもてあそびながら斜めに笑った。せっかく正装になったのに、それらをすべて台無しにしそうな崩れた座り方をしている。その方がベルスらしいといえばらしいのだが。
ジェミネは膝の狭いマーメイドスタイルのドレスだったため、自然と膝を閉じて緊張していなければならなかった。
表層意識では、早く脱ぎたかった。少しでも足を崩すとスリットから太股が見えそうだ。おまけに濃い赤なので肌が余計に目立つ。
だがそう思いながらも、心のどこかではそんな格好をしている自分を嬉しく思う自分がいた。美しくアップされた髪や、行き届いたメイク、胸元に光るダイヤ。
そして隣りに座る、王子様……。
16歳には、きつすぎる冗談だ。
そしてそれは、やっぱり冗談だった──と思える終結が、待っていた。
6.
大豪邸のような荘厳なレストランが、ジェミネたちの乗った車を迎えいれてくれる。
従業員らしき、だが立派な格好をした者たちが、列をなして車に向かってお辞儀をしている。その中を、優雅に降りて平気で歩けと言われても、到底できるものではない。ジェミネはカチンコチンに固まってしまった。
内心、
「ビッグチーズハンバーガーで良かったのに……」
と呟きながら。
ベルスは妙なところで妙に舞台度胸があるのか、ワシュレイと共にジェミネの隣りについて、
「ナスとカボチャの行列だと思えよ」
とジェミネに耳打ちした。ジェミネはベルスを軽く睨んだだけだった。そんな使い古されたアドバイスなど、何の役にも立たない。
「私こう見えても、あんたの30倍は細胞を持ってるから」
遠回しなジェミネの嫌味にベルスは一瞬歩調を遅くしてから、むっとしながらついてきた。それを聞いていたワシュレイは、ジェミネに腕を貸しながらクスクスと笑っている。ジェミネはそんな彼の横顔を見上げて、はっとした。
ワシュレイの顔色が、心なしか悪く見える。
日が落ちたせいだろうか? だと思いたい。それでなくともワシュレイは線が細くて、はかなげなところがあるから。ジェミネは「大丈夫?」と聞こうとしたが、その前に邪魔が入ってしまった。
「ワシュレイ殿下!」
「皇太子!」
突然、強い光がジェミネたちを包んだのだ。
「な、何?!」
マスコミだった。
そんなに大量ではない。しかし3,4社はいるだろうか、総勢10人ほどが取りまいてきた。ジェミネは恐怖すら感じた。
黒服の男たちがわらわらと現れて彼らを押しもどすが、彼らはそんなことにひるまない。むしろもっと強い力で、ジェミネたちを押しつぶしてきた。
大きなカメラが自分に向いている。ワシュレイに向いている。視界が光の渦に、消えそうになる。
レストランの玄関から「殿下!」という声が飛んできた。
「バリー! お前がリークしたのか?!」
「殿下の捜索をしていたSPが記者に掴まりまして……」
「痴れ者!!」
ワシュレイの声が、これまでになく怒気をはらんでいる。このマスコミ攻撃はワシュレイも予期していなかったらしい。が、そこに自分の知っている者──おそらく執事だろう──がいることは、知っていたらしい。このレストランに今晩来ることは、予定されていたのだ。
っていうか逃げたワシュレイが一番悪いんじゃねぇの? と、ジェミネは混乱しながらも頭の隅で考えた。
もみくちゃにされ、ピンヒールが折れた気がしたが、今はそれどころではない。ワシュレイはジェミネをかばい、大声を出して止めて下さいと訴えた。
「止めろ! 俺たちにメシを食わせろ!」
「ベルス、それ格好良くない」
冷静にボケツッコミをしている場合でもないが。
しかし行く手を阻む彼らから逃れることもできそうになかった。なぜなら突然ワシュレイが、口元を押さえて体を折ってしまったのだ。吐きそうな体勢。
「ワ、ワシュレイ?!」
ジェミネは周囲に構わず、ワシュレイの体にしがみついた。ワシュレイがよろけ、自分たちが降りてきた車のドアに背をぶつけた。
「畜生」
ベルスが叫び、ドアを掴んだ。
「乗れ、ジェミネ! ワシュレイ!」
問う暇もなく、開けられた車内に2人は押しこめられてしまった。なおもレポーターらしき女が車内にまで食いさがろうとするのを、ベルスが押しもどしてくれている。ドアが閉められる寸前、ベルスが「アンネだ!」と叫んだ。
争う彼らを尻目に、察したドライバーが車を発進させてくれた。
「アンネ?」
シートに沈みこんで、ぜはぜはと息を荒くするワシュレイに、ジェミネは困ってしまった。彼女は医者じゃないし、そういう心得を何も持っていない。けれど彼のこの呼吸が、ただごとでないことは分かる。
折れたピンヒールを脱ぎながら、ジェミネは言った。
「運転手さん、病院へ」
「分かりました」
顔をこちらに向けない無骨な感じのドライバーだったが、その声音は優しかった。運転手の男はさらにジェミネに言った。
「シート下のボックスに、ミュールが入っています。かかとがありませんから、寸法が違っても履けると思います。良かったらお使い下さい」
送迎車にそんなサービスがされているというのが、数時間前のジェミネなら顔を歪めて叫んでしまいそうな驚愕だったろうに、今はもう慣れてしまった。それよりもワシュレイの方が心配だ。
けれどワシュレイは息を整えて、車に備えつけられていた水を口に含むと、はっきりと「帰らない」と言った。
「アンネ、だろう? ベルスと何かの約束をしたんだろう? 僕もそこに行く。病院に行く必要はない。ホテルだって、今日はもうマスコミが張っているに違いないんだ、帰ったりしたらひどいことになる。一晩かくまってくれ。……お願いだ」
ワシュレイの言い分は、筋が通っているように聞こえた。ジェミネが返答に困っていると、運転手が赤信号で止まって発言した。
「右に曲がるとホテル、左がジャンクストリートです」
ジェミネやベルスの住む通りである。
返事をしたのはワシュレイだった。
7.
アンネとは、ベルスの母親である。
アパートを経営しているので生活に余裕があり、おかげでベルスもバイクを乗り回せる。女手一つでベルス以下5人の兄弟を育てあげた肝っ玉母さんで、困った時には頼りになるストリートの母でもある。
ジェミネとワシュレイはそんなアンネを尋ねて、かくまってもらうことになった。アンネはアパートの空き部屋を貸してくれた。そこはジェミネもよく利用させてもらう、仲間たちのたまり場でもあった。
「安心おし。一晩、ゆっくり休むと良いよ」
恰幅の良いアンネは、おおらかな笑みで2人を迎えいれてくれた。ジャンクストリート。元より、得体の知れない者も集まる、ごった煮のような街だ。
空き部屋といっても、いつも使っている部屋なので埃も少なく綺麗な部屋である。
それでも王子様に似つかわしい部屋ではない。窓際のソファに落ちついて、外を眺めるワシュレイを見ていたら、ジェミネは急に自分がとんでもないことをしてしまったという後悔に襲われた。
ここに来たのは、間違いだった。
ホテルに行くべきだったのだ。
もみくちゃにされた自分の格好も何やらみじめで、ジェミネはいい加減このドレスも脱がなければなと現実にかえった。もう夢は終わっている。今ここにあるのは、夢の残骸のようなものだ。
「着替えなきゃ……。また明日来るわ、殿下」
そう言ってジェミネは、何とかおどけた笑顔を見せてワシュレイに挨拶をした。ぎこちなくドレスを上げる仕草に、ワシュレイが「どうしてワシュレイって呼ばないんだい」と立ちあがった。
「行かないで」
夢だ。
夢の残骸だ。
そう思うのに、頭のどこかはしごく冷静に「のぼせ上がるなジェミネ」と自分を叱りつけているのに、体が思うように動いてくれなかった。自分を包む繊細な肢体を逆に包みかえして、あまつさえ、しっかりと抱きしめて……動けなかった。
お互いがお互いを絡めとるようにして、離れられない。
もっと近寄りたくて、もっと一緒になりたくて、精一杯、体をくっつける。隙間がないほどにまで固く抱きしめあった2人は、いつしか唇を重ねていた。触れるようなキスでなく、噛みつくような乱暴さでなく、求め、自分の中に相手を取りこみたいと欲しがるような、それでいて愛しむような。
2人は息もできないほど、呼吸を忘れるほどに互いをむさぼった。
こんなに知らない人なのに、とジェミネは心のどこかでそう思う。
相手もまた自分のことを何も知らない。
なのに、生涯でこの人だけだと思えるほどに、ワシュレイのことしか考えられない。他に誰も見えない。ワシュレイもまた自分しか見ていない。
目を開いて彼の顔を覗きこむと、ワシュレイもその視線に気づいて目を開けた。名残惜しそうに唇が離れる。
見つめあう互いの目に互いしか映っていないのを確認して安心したのか、ワシュレイはまたジェミネを抱きすくめ、唇をまさぐった。ジェミネもそれに答えて彼の下唇をちょっと舐める。
そんな2人がベッドに移動しようとしたその時、扉をノックする音が響いたのだった。
「俺だよ。ベルスだ」
「ベルス! 無事だったのね」
心臓が跳ねあがったのを隠すようにして、ジェミネは慌てて扉を開けて、大袈裟にベルスをいたわった。ベルスはヨレヨレのタキシードのままだった。両手に抱えていた2つの紙袋を落としそうになり、「おっとと」とおどけている。
「お坊ちゃんには食べつけないかも知れないけどな。俺たちのディナーだよ」
紙袋からは、ハンバーガーやポテトの匂いが立ちのぼっていた。まだ暖かいらしい。その時になって2人は、何も食べていないことに気づいたのだった。
「あと、これ。弟の服だけど、着替え。その格好じゃ寝れんだろ」
「気が利くわねぇ」
「おふくろだ」
「やっぱり」
ドツかれた。
ワシュレイが笑いながら「食べようよ」と2人を即した。
「お腹がペコペコだよ」
王子様が大袈裟にお腹を押さえてみせた。ジェミネもはしゃいで、
「コーラも入ってる? ハンバーガーにはコーラよ」
と紙袋をひったくるようにして部屋に戻る。
ベルスは目を細めたが、何も言わないで部屋に入った。
「しかし惜しかったよなぁ。二度と行けないぜ、あんなレストラン」
「でもベルス、ナイフとフォークの使い方も知らないじゃん。オシャカになって良かったよう」
ジェミネがぼやくベルスを慰めた。ジャンクフードのパーティはこの上なく楽しかった。途中、交互に風呂に入りながら、それでも宴会は続いた。誰も明日のことは話さなかったし、昨日のことも話さなかった。
大事なのは、今日のこの瞬間だけだ。
「大体さぁ、ジェミネって本当に可愛いのに、自分でそれを分かってないところがまた可愛いよね」
ワシュレイがそんなことを言いだしたのは、ベルスがビールを買ってきやがったせいだ。王子様はアルコールに弱かったらしい。
ジェミネは、レストランをたつ前にワシュレイが見せた不調が気になったが、そんなジェミネの視線にワシュレイは微笑んだだけだった。大丈夫という意味で。
ひとしきり騒いで夜も更けた頃、ベルスが部屋を出た。殿下はベッドに撃沈している。ジェミネだけが扉に立って、ベルスを見送った。
「下にいるからさ、何かあれば呼べよ」
「あ、ベルス。私ももう……」
「良いって。分かってるから」
「え?」
扉越しにベルスを見送って立ちつくすジェミネに、ベルスは苦笑した。
「俺は金持ち坊ちゃんを、頃合いを見計らって誘拐でもすっかぁと思ってたんだ。けど、お前に負けたんだよ」
「どういう意味よ。分からないわ」
ベルスはジェミネの額を指で弾いた。
「いたっ。何すんのよ」
「分かられたら俺の立場がねぇからな」
もっと分からない。ことにしておこう。
廊下を歩いていくベルスは、背中越しに手を振った。
「ラブストーリーに出てくるライバルは、お人好しって相場が決まってんだよ」
8.
ワシュレイは、酔いつぶれた風情でベッドに沈みこんでしまっていた。
「あーあもう、これのどこが王子様よ」
ジェミネはボヤきながら、ワシュレイの靴を脱がせてやった。半分空いた窓から、初夏の風が吹きこんでくる。ほてった体のジェミネにはちょうど良かったし、ワシュレイも飲んでいるから……とは思ったが、ジェミネは窓の隙間をほんの少しだけにした。
「うー……」
王子様らしくないうめき声である。
っていうか、ぶっちゃけ、ただの青年だ。
たった一日で恋に落ちてしまった、愛しい青年だ。
壊れやすいように見えて、結構強い。
彼がかいま見せた不調も自分の考えすぎなのかも知れない。
「大丈夫?」
ジェミネはベッドの端に座って、ワシュレイの柔らかな金髪を撫でた。するとワシュレイはジェミネの腕を掴んで仰向けになり、ジェミネを引っぱった。体勢を崩した彼女がワシュレイの胸に落ちる。膝を立てそうになったジェミネはそれがエルボーだと気づいて、慌てて万歳をした。ワシュレイの胸に体当たりになった。
「ぐえ」
「止めてよ、カエルみたいな声出して」
「カエルの王子様」
「笑えない」
ジェミネは笑いながら、ワシュレイの隣りに転がった。
酔ったワシュレイの声が、自分の経緯を紡ぎだした。
「朝、パークを散歩してたんだ」と。
お付きが一人いるんだけど、彼に身代わりを頼んで公園のトイレで服を交換してSPをごまかして。今日のあのレストランに絶対に戻るから、それまで一日伏せっていることにしてって頼んだんだけど、失敗しちゃった。映画みたいには上手く行かないもんだよねぇ。
そう言ってワシュレイは、くすくすと笑ったのだった。
「お店で服を買って着がえてね。それから僕は、天使を見つけたんだ」
かゆい。
この展開で天使などと登場したら、それが誰を指して言ってんだか、いくらジェミネでもさすがに分かる。ジェミネは「止めてよう」と手を振ってワシュレイのストーリーを中断した。
「天使っていうのは、あんたみたいな人をいうのよ。分かる? プラチナブロンドと翡翠の瞳に、白い肌。今日、大聖堂を見たでしょ、む」
矢継ぎばやにしゃべるジェミネの口がふさがれてしまった。今日、何度目のキスになることだか。
「天使が嫌なら、聖母様でも良いよ。君、通りで転んで怪我した少年に手を貸してたよね? でも、その手を拒まれた。拒まれたのに君は笑ったんだ。その瞬間に、僕に何かが生まれた。それから君をずっと追ってた。目が離せなかった。……ごめんね、つけ回したりして」
つけ回されたことよりも、ワシュレイの中にも何かが生まれた瞬間があったのだと思った方が、驚きだった。自分が感じたものと同じらしいという直感が働いた。
でもジェミネは、そのことを言わなかった。口に出したら消えてしまいそうな感覚の気がして。
「色んな君が全部、魅力的だった。通りで出会ったおじさんに挨拶してるのも、危ない自転車を怒鳴る君も、雑貨店のウィンドウを眺める横顔も素敵だったんだ。書店に入った君がしようとしていたことは、むしろ僕にはチャンスだと思えた。ここで君を捕まえなきゃ、きっともう君を捕まえられないと思った」
黙って見つめていたら、ワシュレイが少し身を起こした。金の髪が自分の頬にさらりと落ちてくる。のしかかってくるワシュレイに、ジェミネは身を任せた。
ワシュレイなら、良い。
そう思った。
けれど彼はしばらくジェミネを抱きしめていたかと思ったら、そのまま、また身を離してしまった。隣りにごろんと横になり、けれど、ジェミネを掴んでいる手は離さずに……彼は、ため息をついた。
「ごめん、僕……。こんなにジェミネを口説いておきながら肝心のことができないなんて、情けなくて仕方がないや」
「え」
かなり露骨な言い方に、間違えようのない結論がついている。完全に100%それを確認するのは失礼すぎるし、かと言ってここまで盛り上がっておいたジェミネは何を言えば良いのか分からなくなってしまった。
このままハッピーエンドにはならないだろうとは思ったけれど、真夏の夜の夢もないんじゃ寂しいです神様。
9.
するとそんな煮えきらない面持ちのジェミネに、ワシュレイが苦笑した。
「黙ってようと思ったんだけど、変に誤解されそうだよね。だから白状するよ」
仰向けになったワシュレイの顔が、月夜に照らされている。色のない肌がとても綺麗ではかなげで、ジェミネに次の言葉を予期させるに充分だった。
「……何の病気?」
ジェミネが先手を打った。
「病気っていうよりは、怪我みたいなもんでね。脳腫瘍」
「腫瘍?!」
ジェミネでも知っている。ワシュレイは再び苦笑した。
「この街へは手術で来たんだ。明後日、入院。大丈夫、頭痛がするていどだから」
「ていどって。あんた、今日ずっと頭が痛いのを我慢してたわけ?」
ジェミネは、沈黙は裏切りと同じだと思った。信用してもらえてなかった気がして、少しショックだった。けれど頭痛がすると言えばジェミネはワシュレイから離れただろう。だからワシュレイの沈黙は正解だったのだ。
「じゃあレストランの時に見せた吐き気みたいな、あれも?」
「疲れると、なるね。空腹でも起こる。もう腫瘍も大きくなってるのかな。でも歩けるし、食べることもできるから、まだひどくないよ」
「まだひどくないよ、じゃないでしょう! すぐに戻らないと駄目じゃない」
身を起こそうとしたジェミネを、ワシュレイが抱きしめて止めた。
「大丈夫だよ。今日明日にすぐ悪くなるわけじゃない。それに……手術は五分五分なんだ」
ジェミネの肩に感じるワシュレイの腕が振るえているような気がして、ジェミネは息をすくめて固まった。気のせいでなく、小刻みに震えていた。ジェミネは感じたことがないが、腫瘍と話す彼の心を占めるのは、おそらく死への恐怖だろう。
「言葉は五分五分だけど、ニュアンスで分かる。多分すごく難しい手術になる」
ジェミネはそっと、彼に手を回した。
「50%の生のために安静にしているより、50%の死にあらがって、やりたいことをやっちゃいたかったんだ。僕、間違ってると思うかい?」
「ううん」
ジェミネは聖母のような笑みを浮かべて、ワシュレイの頭を抱きしめた。大きくない胸だが、その谷間でワシュレイが深く呼吸をしているのが感じられた。
「手術をしないでいたら、あと何日生きられるのかな」
ワシュレイはぽつんと呟いた。
「ねぇジェミネ。生きられるところまで一緒に暮らしてさ、僕が半年後、誕生日を迎えたら君と結婚するってどうかな? 僕のもの、みんな君にあげられるもの」
ワシュレイは明るい声音でそう言った。きっと自分のアイデアが、とても素敵なものに思えたのだろう。
けれどジェミネの思いは複雑である。
「何て言って良いのか分からないけど。言葉が適切でなかったら、ごめんね。……それって私には、戦わずして逃げてるって感じがするわ」
ワシュレイから返答はなかったが、空気のこわばりが感じられた。ジェミネは構わずに続けた。
「半分の可能性を捨てたら、後の半分は腐った生じゃないかしら。死んで何もできないのは確かに辛いけど、生きてるのに何もできないのは、もっと辛いもの」
ジェミネは家で伏せっているはずの母を思いだしながら、そう言った。
「もし成功したら、もっとやりたいことの可能性が広がる。……違う? 本当に“死にあらがう”なら、それは手術を受けることじゃないかな」
ジェミネはワシュレイの後頭部に目を落とした。
「明日、」
ワシュレイが顔を上げた。衣擦れの音がした。切ない静かな音だった。
「だから今晩は一緒にいてよ。ジェミネを抱けない、勃たないのが悔しいけどさ」
彼にそぐわない用語だけが妙に浮いて、ジェミネの笑みを誘ってしまった。
「王子様のくせに、俗語を使うなんて! 似合わないわ」
「嫌い?」
ジェミネは子供のような顔をするワシュレイの額に、キスをした。
「好き」
ジェミネはアルコールによって饒舌になったワシュレイを見ながら、ベルスに感謝した。
──あんたのビール、役に立ったわ。
ベルス本人はおそらく、そんなことを感謝されたくないだろうが。
それから2人は夢物語を話しあった。
ウェディングドレスはこういうものが着たいだとか、ハネムーンは誰もいない南の島が良いだとか。新居はこんな家で、子供は3人……。
「手術に成功して完治したら、僕はまっさきに君を抱きたいよ」
臆面のない素直な少年の言葉に、いやらしさは感じない。
夜が明けるのも惜しいほどに話の尽きなかった2人だが、それでもワシュレイは、しばらくすると眠ってしまった。
ジェミネは一晩中、ずっと彼の寝顔をながめ続けた。
すぐに忘れてしまいたい、生涯覚えていたい、矛盾する気持ちを抱えたまま。
10.
翌朝、彼は起きなかった。
いや正確には、起きれなかったのだ。
やはり前日のお祭り騒ぎは体にこたえたらしい。
ワシュレイは、声を出すことすら困難な状態に陥っていた。
ジェミネは壊れそうな自分の胸を押さえつけ、涙をこらえて電話に手を伸ばした。
警察でなく、大使館に連絡を取ったのは正解だった。
ほどなく救急車がやってきて、彼を壊れ物のように──それこそ本当にワシュレイは壊れ物なのだ──あつかった。
ジェミネは、同乗を許されなかった。分かっていたことだ。
汚いストリートに突然やってきた白衣と黒服の軍団は、まるで消毒薬のように嫌悪感たっぷりに、辺りに排気ガスをまき散らしながら去っていった。ジェミネはベルスに借りた、くたびれたGパンとTシャツのままで、そんな救急車を見送った。
ドレスと宝石は、救急車に同行していたバリーだとかいう執事のおじさんに返した。タキシードも同様である。
「これで全部ですか?」
バリーの胡散臭げな顔は、昨日までならフンと突っぱねられただろう。
ジェミネは怒りを抑えて、ミュールを脱いだ。
「申し訳ありません。これも昨日のレストランの運転手さんが貸して下さったものでした」
目を充血させて、その下にクマを作ってバリーを睨みつけるジェミネは、彼の手にそれを押しこんで反転し、車から離れた。もう行け、という合図である。
バリーは裸足のジェミネを見て何か言いかけたが、あきらめ顔になって車に戻った。
ジェミネが返したドレスの中にはきっちりと、ストッキングから下着までたたまれていた。
「ありがとうね」
ジェミネと一緒になってワシュレイが去るのを見送っていたベルスに、ジェミネが声をかけた。もう救急車の姿はなくなっていた。
「ベルス、ワシュレイの具合が悪いの知ってた?」
カマをかけたつもりではなかったのだが、ベルスは空を見あげて「まぁな」と言いよどんだ。
「タキシードに着がえてる時に、坊ちゃん一度吐いたんだよ。でもジェミネには言うなって言われてたからさ」
ベルスは気まずそうに言う。
「言った方が良かったか?」
ジェミネは首を振った。
「あんた、本当に良いヤツだったのね」
ベルスはそこで何か言いかけたが、ジェミネの腫れた瞳を見て、口をつぐんだ。
午後、家に戻ったジェミネはバイト先からの解雇連絡にへこみつつ、アルツハイメンの使いだとかいう男を出むかえた。どうやって見つけてきたのか、素早い行動力だ。
だが用件が「口止め」だったので、早いのも当然かとジェミネは醒めた思いがしたのだった。
ジェミネは最初、そんなお金なんかいらないと言って突っぱねた。だが男はベルスの一家にも渡したものだし、この先、気が変わって騒ぎを起こされても困ると言って、ジェミネに金を押しつけた。
彼は淡々と言ってのけた。
「愛や友情なんてものだけを胸に沈黙を押しとおすなんて、そんな美しいことが可能だとは、私は思いませんよ」
なら私がそれを見せてあげるわよ……とジェミネはタンカを切りたかったが、30年後の自分にまで責任が持てないと思ってしまう辺り、やっぱり夢は覚めたらしいと思わざるを得ない。
結局ジェミネは屈辱を味わいつつも、それを受けとった。
ベルスは、何だか気兼ねがあって結局は手つかずさ、と後でジェミネに言ったものだった。アパートを改築する資金にしようだとか、いやいや増築だとかいう話は出るものの「まぁ、まだ良いか」という一言で終わってしまうのだとか。
ベルスが話す家の様子が簡単に想像できるので、ジェミネは笑ってしまった。
「で、この先どうなるか分からないけど、俺の進学資金にという話も出ている。これが一番傑作だよな。ありえねぇよ」
けれどジェミネは嘲笑できなかった。
あの一件以来、ジェミネはおろかベルスも真面目に学校に出ている。本当にきちんと知識を吸収したら、まだまだ伸びることができるのだ。ジェミネは生まれて初めて、知識を「面白い」と感じていたから、だからベルスの進学も馬鹿にできなかった。
「行きなさいよ、大学。何ごともチャレンジだわ」
ベルスはそんなジェミネの笑顔にワシュレイの面影を見る。そしてベルスも、一つステップを上がったような気分になって、ゆっくりと微笑んだのだった。
「人生、全部やらなきゃ損だよな」
だが金を手にしたジェミネは、それを全部使ってしまった。
惜しげもなく、一ドルも残さず。
母の治療費にあてた後、残りをすべて父親に渡したのだ。
母親はサナトリウムに入った。その後、ジェミネが父親に金を差しだした。投げつけるようにでなく、静かに、テーブルで向かいあって。アル中で赤い顔をしていた父親は最初、そんな娘を見もしなかった。
「娘が体で稼いだ金でなんて、飲めるか」
と言って。
ジェミネはガタンと立ちあがり、拳を握って震えた。思わず涙がこぼれたが、そのまま父親に背を向けた。
「明日にでも、荷造りして家を出るわ。働きながら定時制の学校に通う。あんたは……好きにしたら良い」
そうして扉を閉めたジェミネだったのだが、翌朝、父親からコンタクトがあった。彼は一睡もしていないらしい沈んだ顔をして、ボソボソとジェミネに呟いた。
「昨日は、あれから酒を一滴も飲まなかったんだ。完全に抜けるには時間がかかるが……手伝ってくれないか」
父親は、不用意だった自分の一言がどんなに娘を傷つけたかを悟ってくれたのだ。
ジェミネが荷造りをすることはなかった。
アル中から脱した父親は、交通整理のバイトだが真面目に働きだした。
帰宅すると、酒よりもこれの方がうまいと言って、ジェミネの作ったレモネードを愛用するようになった。昔、子供の頃に見ていた、たくましく引き締まった顔をした父親が帰ってきた。
「あの日に起きたこと……父さんに話してくれないか?」
父親はある日、ジェミネにそう聞いた。今までずっと機会を伺っていたのだろうと思われる。だがジェミネは「もう少し……。もう少ししたらね」とかわした。
「お前の人生を変える誰かがいたのだろう?」
ドンピシャだ。
「うん」
ジェミネは微笑んだ。
「天使に会ったの」
11.
──足跡が、雪の上に点々とついていく。
もう季節はすっかり冬になっていた。
あれから半年。早いものだ……と思うジェミネの脳裏から、天使の笑顔はまだ消えていない。
父親の稼ぎで生活の安定したジェミネは、メキメキと学力を伸ばしていた。純粋に学問が面白いと思ったためもある。だがその機動力は、やっぱりワシュレイの病気が原因だったと言って良い。
あの時ジェミネは自分の力のなさを痛感した。今さら医者になるなどというのは荒唐無稽な話だったが、ジェミネは本気で何かになりたいと望むようになった。何かを得たいと思った。
自分が、知識もなく身のこなしも知らない、狭い世界の中で自分を悲観している子供にすぎなかったことを知ったのだ。
せめてワシュレイが話す言葉の意味ぐらいは、分かるようになりたい。
ワシュレイの着ていた服がどういうものなのかを知りたい。
ワシュレイの隣にいて恥ずかしくないような歩き方をしたい。
ワシュレイの触れてくれた唇に乗せるリップぐらい、上手に引けるようになりたい。
ジェミネは勉強にいそしみ、日曜日にはチャリティーにかよう日々を送った。病棟で闘う人たちのすべてに、ジェミネはエールを送り続けた。
そんな第七王子様の手術は、無事成功したらしい。
というのは、驚くほど小さな記事で新聞に出ていたものだ。
入院後しばらくしてから、ワシュレイの手術は行われたらしい。らしいというのも、そう新聞に書いてあるのを読んだだけだったからだ。何度、大使館に電話をかけようかと思ったか知れない。しかしそのたびにジェミネは自分のその行動を、あの金をくれた男に「気が変わった」と思われるのが嫌だったので、絶対に受話器を取らなかった。
電話をかけたくなった夜は、自分の前から電話を追いはらって、ベッドに丸まって彼の寝顔だけを思い続けた。
王子はほどなくして、国に帰った。と、これまた小さな記事でポツンと書いてあった。
そうして半年が経過したのだ。
急に変貌したジェミネとベルスは、最初「あの2人付き合ってるぜ」と噂されたものだったのだが、やがて皆それが間違いだったと気が付いた。
半年もたつ頃にはベルスが一方的にジェミネに付きまとっている図が普通になっていた。
「なぁ、まだ駄目かよー。ちゅーの一個ぐらい、くれたって良いじゃんかよ」
「それ貰って嬉しい?」
ジェミネの冷静なツッコミに、ベルスは沈黙するしかない。いつかは彼の気持ちに応えたいと思う自分もいるが、それはジェミネにとって、まだ、今ではない。
そうした日々を送る、ある日の夕方、学校から帰ったジェミネが宿題をしていた時に、それはやってきたのだった。
巨大な荷物が。
「はぁ?」
両手で抱えきれるかどうかという大きな段ボール箱だったが、それを持ってきた配達員は、驚くほど軽そうにそれを扱っていた。男は玄関先にそれをそっと降ろして、しわがれた声で「配達でぇす」と言った。
配達員は風邪を引いているのか、マスクをしている。目深にかぶっているその帽子がどこの配達会社のものなのかが分からなくて、ジェミネは怪訝な顔をした。
すると、まだ若そうなその配達員は、
「すみません、荷物の確認をしてもらって良いですかね?」
奇妙なことを言った。
手を出しあぐねているジェミネの代わりに、その男が箱を開けてしまった。人一人が入れそうなほどに大きなその箱から出てきたのは……。
「ウェディング……ドレス?」
まぶしく輝く純白のドレスが、玄関いっぱいに咲き乱れたのだ。
大きく胸が開いていて、そこにたっぷりとレースを施してあるデザインは、いつかジェミネが寝物語にワシュレイに語って聞かせたドレスそのままだった。ジェミネはその時に言った自分のセリフを、憶えている。
長いトレーンと大きなスカート。スカートに散らばるビーズは真珠にしてねと冗談を言って笑った。言ったそのままを形にしたものが、ここにある。
女が一生に一度だけ、お姫様になれるドレス。
ジェミネが顔を上げると、配達員がジェミネを見おろしていた。翡翠の目だけで分かる、優しい微笑み。帽子の隙間、耳の前にだけ、ほんのわずかに短い金髪が見える。
ジェミネは震える手で彼のマスクと帽子を外した。
髪はつんつんに短くなっていたが、その笑顔は変わらない。むしろ以前に見た時よりも血色が良いような気がする。少し頬もふっくらとしただろうか。手術の成功を物語っていた。
「頭を丸ぞりにしたからね。生えてくれて良かったよ」
ワシュレイ殿下は、おどけて言った。
「半年間、リハビリや手続きで忙しかったんだ。けど……もう忘れられたかと思ってた」
ワシュレイの口調は、ジェミネが彼のことを忘れていないことを悟っている。
「忘れちゃいたかったわよ!」
叫んだと同時に、堰を切ったようにジェミネの両目から涙が流れた。
その髪も肌も、綺麗な瞳も。天使の笑顔も。
ワシュレイは指を伸ばし、ジェミネの頬をぬぐった。
「来週、僕の誕生日なんだ。パートナーを探してるんだけど」
ジェミネはもう両手で口を押さえて涙を堪えるのに精一杯で、出てくるのは嗚咽ばかりで、何も話せなくなった。ジェミネは必死で首を縦に振った。
ワシュレイはドレスを両手に持ったままの状態で「良かった」と笑った。
「半年の間にプロポーションが変わってたら、どうしようかと思ったんだ」
「失礼ね!」
思わずジェミネは吹きだした。
「腰は詰めてもらわないと、ぶかぶかのはずよ」
「本当に?」
そう言うとワシュレイは箱にドレスを戻して横にどけて、ジェミネにぐわしと抱きついた。
「あ、細い」
「ワシュレイはたくましくなったわ」
ジェミネもつま先立ちになりながら、彼の首にしがみついた。
固く抱きあったまま、ワシュレイがジェミネの耳元でふと呟いた。
「まだ受けとり貰ってないや」
どこまでもトボけた王子様である。
涙に濡れたままジェミネは笑顔になり、
「受けとり印よ」
と言ってワシュレイにキスをした。
◇
ある洋服店の店長は、必ず「アルツハイメンという国を知ってますか?」と客に尋ねるらしい。
大抵の客は知らないと答えるのだが、時々その国を知っている者に出会うと、彼は揉み手の小指を立ててニコニコと微笑む。
「あちらをご覧下さい」
彼が指さす先には、額に入った3枚の写真が飾ってある。一つは優雅な笑顔で、この店長と共に立つ少年の写真。その少年が、3人の立ち姿では友達のような顔をして満面の笑みになっている。さらに隣にはそれを拡大した写真だ。拡大された方には3人のうち2人しかいない。その少年と、中央の少女。
隣りに立つ少女の顔はどこか怒ったような、それでいてはにかんでいる、見る者の笑みを誘う表情をしていた。
店長は客がその写真を堪能した頃を見計らって、こう言うのだった。
「第七皇太子ご夫妻が、初めて一緒にお撮りになった写真なのですよ」 fin
12(おまけ)
天井の高いホール。至るところに金を施してあり、かつ重厚な様相を示しているレストランは、立食パーティで賑わっていた。
背のすらりと伸びた青年が、会う人会う人に声をかけられ、にこやかに対応しながらも歩調を崩さず歩いていく。早すぎず遅すぎず、まるでワルツでも踊っているような足取りである。
けれど彼は明らかに誰かを捜しており、時々金の髪を揺らして辺りを見回していた。
「殿下」
トンと肩を叩かれ、青年はゆるやかにふり返った。彼は微笑んだ。
「どこに隠れてた?」
「隠れてないわ。オーボエ男爵様とお話をしていました」
彼が顔を上げると、くだんの男爵が彼に握手を求めていた。
「ワシュレイ殿下。奥方は素晴らしい女性ですな」
「僕の妻ですから」
笑顔でしれっと言ってのける。男爵はひとしきり笑った。
談笑した後に、
「そろそろ行くかと思って」
「そうね」
ワシュレイが差しだした腕に、奥方、ジェミネが手を絡めた。
すっと伸びた背筋が美しい。ワイン色のマーメイドドレスは、褐色の肌によく似合っていた。2人が揃うとホールに華が咲いたようだった。
その中を2人はあでやかに退場した。
だが玄関に待つ黒い送迎車に乗りこんだ2人は、一斉にため息をついてシートに沈みこんだのだった。
「ああくたびれた」
金髪碧眼の王子様が、臆面もなくそんなことを言う。ジェミネがそれを聞いて苦笑した。
「何だか私、あなたに変なことを教えてしまったみたいで申し訳ないわ」
「じゃあジェミネは、自分のやっていたことが変だったと思ってるのかい?」
「少なくとも足を広げてソファに寝そべってガムを噛むのは、変だったと後悔してるわ」
ワシュレイが吹きだしながら、そんなジェミネの肩を抱きしめて顔を寄せた。ジェミネも目を閉じる。
「ワシュレイ、ブルーベリー食べた?」
「君がチョコレートをつまんでる間にね」
「ひどーい食べたかった。気づかなかったわ」
「どうぞ」
「それ違うもん」
と言いながらもジェミネは、彼の口に残る甘酸っぱい風味を味わった。
ゴホンと咳きこむ声と車の止まる振動が、2人を現実に引き戻す。赤信号だった。
「殿下、右に曲がるとホテル、左がジャンクストリートです」
ジェミネはその口調に聞き覚えがある気がして顔を上げた。ドライバーは、
「ヒールは折れていませんね」
と微笑んだ。
2人は声を揃えて左と告げた。
ホントにfin♪
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