FILE.30 <特別編全5回>
父と娘 【その5】父の愛情

08.05.14
―――特別編「父と娘」は、体験を小説風に書き起こしたものです。

 あの父親の娘でいることの辛さがわかりますか――。
 「あーあ」。タクシーに乗り込んで行き先を告げたとたん、唯子の口から大きなため息がこぼれた。
(なんであんなこと口走っちゃったんだろう)
 母親を傷つけた香典を返しにいったはずだった。だが、実は唯子自身が深く傷ついていた。

 父親の存在は、唯子にとって苦しみでしかなかった。
 繰り返される浮気。仕事をせず、ふらふらと街を遊び歩く毎日。母親はもちろん、祖父母ともたえない喧嘩。ごくたまに夕げの食卓にいたかと思うと、「食べるのが遅い」と殴られた。
 中学の時、同級生からいわれた言葉を思い出す。「お互い大変だよな。おまえの親父もやぶれモンだもんな」。その男の子の父親の背中には龍の刺青があった。
 破れ者。始末の悪い男を指すその地方の言葉だったが、思春期の唯子は、「人生に敗れた人間」ととらえた。父親は、破れ者であり、人生の敗者だった。唯子は香典袋と一緒に、自分の辛かった過去を投げつけたのかもしれなかった。

 家に戻ると、母親が玄関まで出ていた。
「何してんの。寒いのに。中に入れば」
 ぶっきらぼうな物言いで目をあわそうとしない唯子に、母親は、かすかに微笑を浮かべながら言った。
「亀山の奥さんから電話あったよ。娘さん、怒らせちゃったって。ごめんなさいね、言うとったよ」。
 唯子はそれには答えずに、「香典、返してきたから」と告げ、玄関でパンプスを脱ぐと足早に部屋に入った。
「ねえ、ねえ、何か買ってもらったの?」。
 長男が長女に尋ねる声がドアの外から聞こえた。

 着替えをすましたころ、母親がやってきた。
「梶原さんがいらっしゃったわ。香典返しののこと、打ち合わせしたいんやて」。
 市議会議員の梶原は、唯子の父親の高校時代の同窓生だった。唯子は、「梶原のおじさん」と呼び、子どものころから可愛がってもらった。告別式で友人代表の辞を述べてもらった。「いい奥さんと子どもに恵まれて、好きなように人生を生きたと思います」。父との思い出話を交えながら、そんなことを話していた。

 「どうもお世話になりました」
 そう言って居間に入ってきた唯子に、梶原は微笑みかけた。
「唯ちゃんもお疲れ様やったね。ほれ、松の屋のシュークリーム買ってきたけん。食べんね」と、皿にぽつんとのったシュークリームを差し出した。唯子が子どものころ、好物だったものだ。
 いつも土産にもってきてくれた。梶原がこの土産を抱えて家に来る時は、決まって家の中が大揺れときだった。父親が浮気沙汰を起こして離婚話が持ち上がったり、父親が経営する会社が不渡りを出しそうになっていたとき、シュークリームと梶原は、唯子にとって激震の象徴だった。

 「お香典、亀山さんに返してきたとって? やるなあ。お母さんのためにひと肌脱いだとね。さすが、お姉ちゃんやねえ」
 にこやかな梶原に、仏頂面の唯子も表情を崩すしかなかった。
「母のためっていうか、なんか、私が腹が立っただけです。お香典投げつけたんだけど、ひらひら舞っちゃって」
「ひらひら舞っちゃったんだ。じゃあ、中身は少なかったかな。はははは」

 つい一緒に笑った唯子だったが、すぐに真顔になり、梶原に話しかけた。
「おじさん、うちの父、おじさんが告別式でおっしゃったように、ホント好きなように生きましたよね。子どもために生きるとか、家族のために働くとか、そんなのなんにもなくて。好きな女ができればそこに行き、麻雀に競馬に競輪に、やりたい放題で。私ら子どもに愛情なんてきっとなかっ……」。
 話の途中で、梶原の表情が締まった。
「唯ちゃん、あんたのパパ、本当に好きなごと生きたと思うね?」
「思いますけど」
 唯子は口をとがらせた。

 「唯ちゃんが物心ついてからはそう見えたかもしれん。おれもそう感じた。けどな、よう考えたら、志村は、本当は自分の人生ば、生きられんかったんじゃなかろうか。6人きょうだいの長男でさ、家は金がなくてさ。
 親父さん、あんたのおじいちゃんが始めた印刷会社は、おれらが高校卒業するころはまだ軌道に乗っとらんかった。他人を雇うには金がいる。志村は大学進学の夢は諦めさせられて、そのまま会社を継いだとさ。おれら仲のよかった仲間は、みんな大学ば行かせてもろうた。けど、志村はここに残った。残って継いだ会社はそのうち軌道に乗った。しっかりもんのあんたのお母さんも嫁にきた。けど、会社経営は、やつの肌には合わんかった」
 思いがけない志村の話に、唯子は戸惑った。
「けど、自分の人生でしょう。パパは私に自分の人生は自分で切り開けって。言うことだけはいっつも立派なことばっか。じゃあ、自分は何してんだって……」。

 「唯ちゃん、自分じゃ、どがんもならん人生っちゅうのが、時代によってはあるとさ」
 まっすぐな目でそう言った梶原は、かたわらの風呂敷包みに手を伸ばした。丁寧にとくと、一枚のスケッチブックを唯子に手渡した。
 真っ茶色に変色したスケッチブックを開いた唯子は、息をのんだ。
 たくましい拳。青年の梶原の顔を描いた肖像画。高架になる前の駅前の風景。今はコンクリートの堤防になってしまった川原。すべて鉛筆だけのデッサンが、生き生きと描かれていた。 唯子は圧倒された。
「パパ、うまいでしょう。絵がね、上手かったの。画家になりたかったんだよね。まあまあ、梶原さん、よくとっとったねえ。パパ、結局結婚してからは、一度も描かないまま終わっちゃっ……」。
 母親の声が涙でかすれた。
 こみ上げてくるもので言葉が出ない唯子に、梶原は静かに言った。
「だからさ。唯ちゃんには好きなように生きさせたいって。唯ちゃん、美大出てさ、その後デザイン事務所始めたわな。志村がどんだけ喜んでいたか」

 美大を出るとき、母は美術教師になって地元に戻ることを強く望んだが、父親は「好きなようにしろ」と言ってくれた。
 数少ない、父親との罵声以外のやりとりを思い出し、唯子は泣いた。
 父親は「長男だから」と、家に縛られた人生を生きた。見えない縄に縛られたまま、抗った。抗った行動は唯子たち家族を傷つけたが、人生を縛ることはしなかった。わが子を縛らない。それこそが、父親の愛情だったのかもしれない。

 目を赤く腫らした梶原が老眼鏡をかけなおしながら、二つ折りの携帯電話を開いた。
「これ、読んで」
 唯子が事務所開きをしたことを、父が伝えてきたときのメールだという。
 ――娘はね、ぼくの心の恋人やもんね。ヒロインたい。唯一の娘。だから、唯子――
 静まり返った居間に、唯子の嗚咽だけがいつまでも響いた。
(終わり)

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