| ―――特別編「父と娘」は、体験を小説風に書き起こしたものです。 |
「ああ、志村さんのところの……。娘さんやね? すぐわかった。お父さんに似とるわあ。あらあら、小さい娘さんも一緒なん? まあまあ。いらっしゃいませ。お母さんから電話のあったとよ」。
白いかっぽう着の上から紫色のダウンベストを着た女性が、唯子たちに向かって手招きをした。漬物の塩だろうか。紺色の長靴には白い粉がびっちりついている。
「都会と違うやろ。私も若いころ、東京におったとよ。ふふふふ。汚いとこやけど、こっちに座って。話すところがあるから」。
目鼻立ちのハッキリした漬物屋の女主人は、工場の隅にあるプレハブの事務所に入り、唯子たちに椅子に座るようすすめた。芽衣はつないだ手をぎゅっと握り返したが、黙って母親についてきた。
女主人はダウンベストを脱ぎ、唯子にも隣の椅子にバッグやコートを置くように言ったが、唯子はコートを脱がなかった。長居をする気はなかった。
「お忙しいところ、時間をとっていただいて本当に申し訳ありません。父が生前お世話になったようでありがとうございます。また、このたびは通夜にもいらっしゃっていただいたようでありがとうございました」。
「本当に急なことで、ねえ。お母さん、どがんしとる? あんたもびっくりしたやろ? 正月明けには入院する予定やったとにねえ」
抗がん治療のための三度目の入院は、父のきょうだいたちにも告げていない。父の愛人に聞いたのだろう。
(いろいろと、よく知ってらっしゃることで)
唯子は心のなかで悪態をついた。
そして、女主人の問いかけには答えず、タクシーで何度か胸の中で反芻してきた言葉を一気に並べた。
「お香典いただき誠にありがとうございました。ただ、お隣の名前の女性からはいただく筋はございません。父とは親交がおありになったことと思いますが、そのことで母はずいぶん傷つきましたし、嫌な思いをしてまいりました。私も電話で何度もそちらの女性と父の話を聞かされました。残された遺族の、うちの母の心中を察していただけないでしょうか。失礼なこととは承知のうえですが、こちらのお香典お返ししたします」
首に巻いたくすんだ空色のタオルを取ってテーブルを拭いていた女主人が、ピタリとその手を止めた。
「あなた、私が仏様に供えてきた香典を返しに来たの?」
「ええ。そうです」。
唯子はきっぱりと、低い声で答えた。我ながら、よくこんな怖い声が出るものだと思いながら。
すると、今度は女主人がまくしたてた。
「あのね。それは彼女とあなたのお父さんのね、大人の問題でしょう。彼女もね、いま病気で苦しんでるの。病院に入院してるのよ。でも、お世話になった亡くなったお友だちにお香典を差し上げたいからって、わざわざ私に連絡を寄こしたわけ。彼女の気持ちも察してあげてほしいわ」
(どうしていきなり標準語なのさ)
唯子の標準語につられたのか、自分が東京にいたことを証明したいのか、ついさっきまでの女主人の九州弁は標準語に変わっていた。そのせいか、事務所の隅で電話をとっていた若い女性はニタニタ笑っている。
「私は娘ですから。彼女の気持ちより、母の気持ちが大切ですから。とにかく、これ、お返しします」
唯子はテーブルに置いた香典袋を持ち上げると、向かい合わせに座った相手の目の前にバシッと置いた。将棋の王手をかけるかのように。同時に、出がけに母親に告げた自分の言葉を思い出した。「スマートに対処しますから。よく説明すれば漬物屋のおばちゃんもわかってくれるよ」
女主人は、逆上した。
「なんね? その態度はっ!? 香典供えるのはこっちの自由じゃろっ。香典返しはいらんけん。ほれ、持って帰らんねっ。あんたのお父さんはそのほうが喜ぶばいっ」
興奮したためか復活した九州弁とともに、袋を唯子へ向かって突きつけた。
「お返しします」
「持っていかんねっ」
テーブルの上の袋は、二人の間をすべるように何度も往復した。そのたびに、袋にへばりついた黒い水引の紐がどんどんよれていく。芽衣が、黒めがちな眼をきょろきょろさせていた。
愛人からの香典を、おまえの父親は喜ぶだろう。唯子はそういわれたと思った。
顔が熱い。体中の血液が顔に集まってくるように感じた。唯子は差し出された胸元の袋をつかみ、女主人に投げつけた。ほおり投げたつもりだったが、袋は相手まで届かずコンクリートの床にひらひらと舞い降りた。 背中を丸めたまま、唯子が見たこともないような特大の電卓の上に指を置いて動かない電話番の女性が見えた。
「あんたね、なんばすっと! そがん無礼な態度で……。あんたのお父さん、成仏できんよ」
「そんなこと、あなたと関係ありませんっ。私は父のせいでずっと嫌な思いばかりしてきたんです。あの父親の娘でいることの辛さがわかりますか?」
唯子は、芽衣の手をぐいっと引っ張り椅子を立った。危うく転びかけた芽衣を引きずるようにしてプレハブを出た。
目の前にあったベージュ色のケースから、白菜漬けがはみ出している。父親が大好きだった白菜漬け。唯子はケースを蹴り飛ばしたい衝動を抑え、歩き出した。
背後で女性が何か叫んだような気がした。「無礼者っ、親不孝者!」。そう叫んでいたような気がする。
カッ、カッ、カッ。
怒りをぶつけるようにアスファルトを踏みしめるヒールの音しか、唯子には聞こえなかった。(最終章・その5に続く)
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