FILE.30 <特別編全5回>
父と娘 【その3】お姉ちゃんだから

08.04.30
―――特別編「父と娘」は、体験を小説風に書き起こしたものです。

 何か言いたいのを我慢するかのように口元をぎゅっと結んだ母親に、唯子は問いただした。
「やっぱり、何か問題がある人なんでしょう……。もしかして……パパが付き合ってた人?」
 母親は黙ってうなずいた。
「それって、どういうことなの!」
 逆上した唯子と対照的に、弟は静かに言った。
「で、その愛人が友だちかなんかに、自分の香典を預けちゃったわけ? なんだそれ。頼むほうも頼むほうだけど、頼まれたからって連名にした香典袋もってくるほうも、ちょっとおかしいんじゃないの?それ、受け取ってい……」
 唯子は弟の言葉をさえぎった。
「ちょっとじゃないよ! かなりおかしいよ。非常識だよ。ママの気持ち考えたら、普通こんなことしないでしょっ! そんなお金、受け取っていいわけないでしょっ」
 弟は唯子の剣幕に一瞬目を丸くしたが、上目遣いで母親を見つめた。
 「私はもう、どうでもいいよ。お姉ちゃんが気のすむようにして」。
 母親は両手で顔を覆いつつ、大きなため息をついた。

 唯子が、女性に香典を返しに行くことになった。
 化粧を済ませて着替えながら、唯子は女性に話す台詞を考えていた。
(大変失礼なことは承知の上ですが、お香典はお返しします。母の気持ちを察してください、かな。いや、もっとキツくいうべき? 冗談じゃないよ、とか)
 そんなことを思い巡らせていたら、6歳の長女が部屋に入ってきた。
「ママ、お出かけ? 芽衣も一緒に行きたい」
 数日間大人の動きについてまわるだけの子どもたちは、ストレスがたまっているに違いない。ふと6歳の娘を一緒に連れて行こうと決めた。
 「一緒に行こうか」と言ってくれた夫には、長男を近くの公園に連れ出してくれるよう頼んだ。

 女性の家は漬物工場だという。唯子たちが乗り込んだタクシーの窓を開けさせ、母親は心配そうに告げた。
「看板が出てるからね。すぐわかると思うけど。わかんなかったらさ、いいから。帰ってらっしゃい」。
「何言ってんの。場所がわからなかったから、帰ってきましたなんて、間の抜けたこと、私がするはずないじゃん」
 威張って言う娘に、母親は目を細めながら少しだけ笑った。
「そうね。お姉ちゃんだからね。きっと見つけちゃうね」
 外の風景を見ながら、唯子は子どものころを思い出していた。(そういえば、パパの浮気相手の家に行ったよな。私が芽衣くらいのころ……)

 父親は若い時分から浮気性だった。まだ祖父も祖母も若かったころだ。自分がいなくても家業がまわるのをいいことに、浮気相手のアパートに入り浸り、なかなか家に戻らない時期があった。幼い唯子は母親に手を引かれ、父親のもとを訪ねるため路面電車に乗った。おんぶ紐で母の背中にくくりつけられた弟が何度も泣き、そのたびに唯子は母親にねだって買ってもらった棒キャンディーを弟の目の前にかざしてあやした。着くころには、弟が噛んだセロファンの包み紙から唾液がしみ込み、べたべたになった。
 電車に乗るのとキャンディーはうれしかったが、アパートに着くと幼い唯子の気持ちは沈んだ。母親からきまって命じられた。
「あそこにパパがいるから、帰ってきてって言っておいで。お姉ちゃんだから、できるね?」
 アパートを訪ねると、中から子どもの声がした。胸がドキドキした。それでも、勝気な唯子は深呼吸して声を絞り出した。「お姉ちゃんだから」の言葉は、常に唯子を奮い立たせた。
「パパ、帰ってきてっ」
 アパートのなかから、子どもの声が聞こえた。
「パパ、だれか来てるぅ」。
 6歳の唯子は涙でぐしょぐしょになった顔を手のひらでぬぐいながら、母親の元へ走った。

 「ねーんねんころーりーよ、おころーりよ」。
 唯子は、路面電車のなかで弟に歌った子守唄を口ずさんだ。喉の奥から熱いものがこみ上げた。
 いつも父親には嫌な思いをさせられてきた。迷惑をこうむってきた。そして、またもや父親の愛人のことで、自分はこうやって動いている。6歳のころと同じように。ただひとつだけ違うのは、父親が帰ってこないということだ。
「死んでも迷惑ばっかかけてさ」

 小さくつぶやいた直後、タクシーが緩やかに停まった。運転手が言った。
「亀山の漬物屋の工場。はい、ここね」
 師走の漬物工場の正面に、母子は立った。正月へ向けた出荷だろう。漬物が詰められたクリーム色のプラスチックの箱が、幾重にも積まれていた。あたりは酸っぱい匂いに包まれていた。
「お漬物いっぱいだねえ。買って帰るの?」
 芽衣の問いかけには答えなかった。
 唯子の視線の先に、女性が立っていた。
(続く)

※メールは、件名を「ルネッサンス」として、コチラへ。
※過去のファイルについてのものでも結構です。
※スパムメールとの区別のために、件名明記で。