FILE.30 <特別編全5回>
父と娘 【その2】父の愛人

08.04.23
―――特別編「父と娘」は、体験を小説風に書き起こしたものです。

 「その人たちがどうかしたの?」
 と唯子が尋ねたが、母親は手にした香典袋をじっと見つめたまま動かない。
 「ママ、なに?何か問題があるの?」
 と強い口調で詰問すると、はっと我に返ったように視線をあげた。
 「ううん。ただ、ちょっと仲たがいしてた人やけんさ。まあ、よかさ。亡くなったと聞いてきてくれたんやし、気持ちは大事にせんばたい」
 そう言って立ち上がると、短くなった線香を付け足し、棺に向かって手を合わせた。
 女性たちが母親と仲たがいにしていたのか、死んだ父親とだったのかはわからない。唯子は少しばかり気になった。が、一瞬動揺したかのように見えた母親が、すぐに叔母や叔父たちと父親の思い出話を始めたこともあり、香典袋の件はすぐに忘れてしまった。

 翌日の午後には、家から葬儀会場へ棺を出した。通夜、告別式と同じ会場で行うことになったからだ。男たちが玄関から棺を出すのを、手を合わせて見守っていた母親はぽつりとつぶやいた。
 「パパ、せっかく改築したとに。自分は1年も住まんかったなあ」
 母親のいうように、唯子の実家は改築したばかりだった。父親が営んでいた印刷会社はとうに倒産したものの、会社があった土地で母親が10数年前から始めたカラオケボックスは繁盛していた。1階が会社の事務所で2階が住居だった家を改築してから、1年しか経っていなかった。
 棺を乗せた車を見送りながら、唯子は泣いた。

 通夜の間も、唯子は泣き通しだった。
 通夜が終わると、会場のなかの大広間に棺が運ばれた。40畳くらいだろうか、そこで母親に弟夫婦、叔父や叔母ら親族が棺の前の線香を絶やさずに一夜を過ごすのだ。
 こういうとき、親族は、故人の思い出話をとつとつと語り合ったりするに違いない。だが、叔父や叔母は、亡くなった唯子の父、自分たち6人きょうだいの長兄のことを話すことはほとんどなかった。祖父の興した印刷会社を継いだものの、なまけ癖があり、決して働き者でないために家業をつぶしてしまった唯子の父親は、きょうだいたちに嫌われていた。
 叔母たちの話題は、自分たちの子どもの結婚や就職、孫の話。そして、血圧の話。50から60代の彼らは、長兄の突然の死に、自分の健康を振り返ることに執心していた。

 「兄さんはさ、肝臓がんやったとに、結局は死因はがんじゃなかったとよね」
 「心筋梗塞ばい。あたしらの家系は心臓が弱かったと? じいさんも、ばあさんも、がんで死んだとにさ」
 「あたし、血圧が高かとよ。降圧剤ば飲みよると」
 「おまえ、そがん若かとに、降圧剤のお世話になりよるとね。ようなかねえ。運動ばせんばやろ」
 「運動とかできんよ。パートに行くのでせいいっぱいよ」

 線香の煙が薄く広がっていくなかで、そんな会話が続いていた。そこに、母親の携帯が鳴った。
 「もしもし。はい、私です。あー、婦長さん。え? 今日が主人の入院日? そうでしたっけ? ああ、そうですよね。ああ、申し訳ありませんでした。もうバタバタしていて、すっかり忘れてました。あのですね。主人、亡くなったんです」
 電話口で発する言葉から、唯子は、父親が放射線による抗がん治療を受けていた病院からの連絡だとわかった。通夜の日が何度目かの治療のために入院する日だったのだ。待っても待っても患者が現れないため、妻である母親に、婦長が電話をかけてきたらしかった。
 「死因ですか? 心筋梗塞だって言われました。そう。昨日の朝でして。お風呂の中で。はい、はい。検死はしていただきました。そう。ええ、本当に驚きました。はい。あの、先生にくれぐれもよろしくお伝えください」

 座布団の上に正座し、何度も何度も頭を下げる母親に視線を送りながら、叔母たちはヒソヒソ話し始めた。
 「兄さんはがん保険しか入ってなかったとって」
 「ええーっ。じゃあ、保険金は入ってこんと?」
 「そう、一銭も」
 「んま。無駄死にじゃね。死ぬにしてもさ」
 無駄死に――。父親を憎み続けた唯子だったが、そうやって悪態をつかれると、心の底から怒りがこみ上げてきた。唇をかみ締めながら、棺から一番離れた畳の上に敷かれた布団にもぐりこんだ。前日一睡もしていなかった唯子は、激しい睡魔に襲われていたが、怒りと失望になかなか寝付けなかった。

 喪主の母親を支えながら、あっという間に告別式が終わった。窮屈な棺で眠っていた父親は、小さな箱の中で骨だけになった。

 葬儀が終わると、唯子たち遺族には香典の整理という作業が待っていた。
 香典帳に、金額別に名前を書き連ねていく。あとで、住所も調べなくてはならない。作業をしているとき、母親がカウンターの上に置かれたままだった香典を持ってきた。ふたりの女性の名前が書かれた、例の香典袋だ。
 「この人のお金、どがんしようか」
 ふたりのうちひとりが持ってきたのだが、問題は来なかったほうの女性だった。
 唯子は、母の気配で察した。
 父親の愛人だった。
(続く)

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