| ―――特別編「父と娘」は、体験を小説風に書き起こしたものです。 |
灯りが消えた夜の家々の中で、唯子の実家だけが明々としていた。
夫と唯子、6歳と娘と8歳の息子を乗せたタクシーは、何台もの車が停められた路上のすき間に滑り込んだ。助手席の夫は、シートベルトをはずしながら後部座席の妻に、「荷物はいいから。早く行ってあげて」と言った。タクシーから降りた唯子は、子どもたちの手を引いて玄関に向かった。
「おじいちゃん、ほんとに死んじゃったの?」
娘が眠そうな目をこすりながら聞く。息子は、
「まだわかんないだろ。病院で生き返ったかもしれないじゃん」
と怒ったように言った。
「けど、ママが黒いお洋服探してたもん」
妹の言葉に、息子は何も言わなかった。
ドアを開け、すぐ右にある居間に入った。布団の上で眠る父が見えた。湯かんの最中だった。きれいに拭かれた父の顔。蛍光灯の下で額が光っていた。ひと月前に唯子が送ってやった濃いグリーンのアクリル毛布が、からだにかけられていた。
「パパ、死んじゃったよ」
部屋の隅にぺたんと座り込んだ母が静かな声で言った。
すでに十分泣いたような、もっと言えばすっきりしたような顔をしていたが、長女が戻ってきたことで感情がこみ上げたのか、震える声を絞り出した。
「ただいま、って言ってあげなさいよ。あんたに会いたがってたんだから」
父の6人きょうだいの末っ子にあたる叔母が、母の背中をさすっていた。
「やだ、やだ。やだよぉ」
唯子は確かそんなふうに叫んだと思う。後から家に上がってきた夫にしがみつきながら。
12月25日。九州の海沿いの町に住む唯子の父が亡くなった。
東京に住む彼女は、弟からの携帯で知った。弟は、「姉貴? おふくろが、おふくろが……」、そう言ってしゃくりあげている。最初、唯子は、心臓が弱くいくつも持病を抱えた母に何か起きたのだと思った。自分でも驚くくらい、取り乱した。
「どうしたのっ! ママが、ママがどうしたのよっ」
「おふくろが電話してきて、親父が風呂の中で……」
その瞬間、唯子は明らかに安堵していた。
「ママじゃないの?パパなの?」
弟は答えず嗚咽を漏らしている。
パパが死んだ――。
唯子は、
「落ち着きなさい! 長男のあんたがしっかりしないと、ママがかわいそうじゃないのっ」
と、弟に怒鳴った。
弟は涙をこらえながら、事態を説明した。
父は、明け方風呂に入った。朝起きた母は不審に思い、電気がついたままの風呂場をのぞいたところ、浴槽のなかで動かなくなっている父を見つけたのだ。180センチ近い大男を、150センチちょっとの小柄な母親が、ひとりで浴槽からひきずりあげたという。
「パパ、パパッ!」。泣き叫びながら、風呂の水につかって父親を抱きあげる母親の姿が浮かんだ。唯子は頭に描いた映像をかき消すように、ぶるぶると頭を振った。
「救急車は?呼んだの?」
「もう救急車は来てくれなかったって。今、警察が来てるらしいよ」
五つ違いの弟は再び泣きじゃくった。弟は、30歳をとうに過ぎ、あごにひげをたくわえた、どちらかといえば強面な男だ。唯子は、子どものころの弟の泣き声をふと思い出した。自分は父親とそりが合わずずっと葛藤を抱えていたが、弟はどこかで父親を頼りにしているようなところがあった。
とにかく、うちには検死のためにすでに警察が来ているのだ。(もうダメじゃん。死んじゃったんだ)、唯子はそう思ったが、口には出さなかった。
後にわかった死因は心筋梗塞だった。
唯子が実家に到着した直後に葬儀屋が現れ、さまざまな段取りが決められた。検死が終わったのが昼近くだったため、通夜は翌日にすることになった。夜の11時だというのに、棺おけが家の中に運ばれた。そこにいた叔父や弟、唯子の夫も含めた男たちの手で、父親が棺おけに入れられた。
「イチ、ニのサンでね、静かにお願いしますよっ」
葬儀屋の男は頬を紅潮させ、父親の遺体を持ち上げた。(なにがイチ、ニのサンだよ。お祭りじゃないんだよ)、単に職務に徹しているのだが、その高揚した横顔が唯子には燗にさわった。しかも、棺おけは大男の父親には小さかった。頭はギリギリで、蓋を閉じるとのぞき窓から鼻から下しか見えなかった。唯子は許せなかった。
「もっと大きいのを持ってきてくださいよ。なんで、こんな窮屈なのに入れられなきゃなんないのよ!」
唯子は文句を言った。が、母親が、「もう真夜中なんだし。とりあえず入ったからいいじゃない」と、とりなした。
「親子の仲は悪かったのに、やっぱり娘は娘ね」
叔母が唯子に聞こえるように母親に話しかけたが、聞こえないふりをした。白檀の線香の香りはきらいではないのに、白い煙の中で胸がムカムカしてくるのを感じた。
台所の隅の小さなテーブルで葬儀屋と話している最中にも、父親の死を知った人たちが次々と現れた。母親は淡々とあいさつをするかと思えば、時折感情をあらわにし、人々の輪の中で泣き崩れた。母親の取り乱し具合で、やって来た人との関係の濃淡が、手に取るようにわかった。
夜中の1時をまわり親族だけになったころ、香典を整理していた母親が、「なに、これ!」と声をあげた。あきらかに不満そうな声で。差し出された香典袋には、二人の女性の名前が連名で書かれていた。(続く)
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