FILE.28 胸にしまった恋 08.04.02

 「ええーっ」。ある朝、新聞を読んでいたシノさんは思わず声をあげた。トーストをかじっていた子どもが「どうしたの?」と問い返したが、「ううん、なんでもないよ」と微笑み返した。
 以前付き合っていた男性の名前を見つけた。しかも、それはおくやみ、そう新聞の死亡欄だった。すぐにトイレに駆け込んだ。涙が止まらなかったからだ。
「まさか、と思いましたね。でも、元県会議員として彼の名前が載っていました。まだ50代だったんですよ。驚きました」。

 不倫の恋だった。学生時代にアルバイトで選挙事務所の手伝いをした。白い手袋をして、選挙カーの中から手を振った。お茶を出し、徹夜でハガキの宛名書きをした。政治に興味があったわけじゃない。彼の従弟で仲のよかった男友達に誘われ、ちょっとした好奇心だった。
 けれど、派閥も持たず、一生懸命に取り組む彼の姿に、いつしかひかれていった。接戦を制し当選した彼から、選挙後に電話をもらった。18歳年上の彼との不倫の関係が始まった。
 「8年、ですね。8年も続いちゃった。本当に刺激的な毎日でした。環境問題も、介護問題も、少子化も、全部彼から教わったようなものです。最初から結婚したいとは考えていませんでした。彼も奥さんとは別れる気はないと言ってましたから。でも、長くなるとやっぱりいろんなことを望んでしまいますよね。私のほうが疲れちゃいました。で、30歳の誕生日に別れたんです。会社を辞めて語学留学しました。空港まで来てくれたんですよ」。
 搭乗口へ向かう下りのエスカレーターの前で、泣きながら別れた。
「じゃあ、ここでね」。「元気でね」。彼も泣いていた。振り向けなかった。進むエスカレーターの上で、こみ上げる思いを抑えられずに振り向いた。大きく振る彼の手が見えた。それが最後だった。

 その後帰国したが、彼とは一度も会わないまま、今の夫と結婚した。他県に引越し住所は何度か変わったが、二度ほど彼女の誕生日にバースデーカードが届いた。彼女への思いが記されてあった。携帯番号に傍線が引かれた名刺が入っていた。
「彼の従弟だった男友達とは、年賀状のやりとりをしていました。その人に聞いたのかなと思いましたね。一緒のサークル仲間だったし、結婚式にもきてもらいました。でも、その人は、自分たちの関係は知らないはずなんですけど……。そのときの気持ちですか? もう、めちゃめちゃ動揺しましたよ。でも、会うわけにはいかないと思いました。もう、子どももいましたから。それに、会ったら、(思いが)あふれだして止まらないと思ったんです」

 実は、彼のことを忘れられなかった。彼の影響で、環境問題に取り組むNPOの事務局で、帰国後はずっと働いている。
 けれど、二度目にバースデーカードをもらったとき、彼女は手紙を書いた。夫に見られたら気まずいということを率直に書いた。カードはうれしいが、もう二度と出さないでほしい、と。
 返事はなかった。数年前の県議会選挙には出なかった。そのことも新聞で知った。

 「どうしてるんだろうって、ずっと気になっていました。彼のことは心から尊敬していたし、生涯で一番愛した人だと今も思っています。夫は、私にかわいい子どもと温かい家庭を授けてくれたけど、彼は、私に人間として大切なものとか生き方を教えてくれた。本当に感謝しています」。
 話しながら、シノさんは何度もハンカチで涙をぬぐった。

 もしかしたら、彼も自分と同じ思いだったのだろうか、と思いめぐらすことがある。一度でも会いにいけばよかったのに。そう自問自答することもある。
 「でも、これでよかったんだって思います。それに、なんていうか、もう死ぬのも怖くないなあって。死んだら会えるのかなって思ったりして」。
 彼の名前が載った死亡欄は、切り取って本にはさんだ。彼が「絶対読んでおいたほうがいいよ」と勧めてくれた本だ。
(終わり)

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