| 元カレと偶然出会った――。前回(FILE.26『うれしい偶然』)のような偶然は、実は少なくないようだ。
PR関係の会社に勤めるヨウコさんは39歳。小学生の女の子の母であり、会社ではすでに課長職についている。多忙を極めるワーキングマザーだ。
ある年の暮れ。忘年会帰りだった。家路を急ぐ彼女は、地下鉄のプラットホームを歩いていた。急ぐといっても夫は出張中で、子どもは近くの実家に預けてある。最寄駅まではあと30分、地下鉄を乗り継げばいい。
「夫とたまに一緒に行く駅前のバーにでも寄っていこうかな、って思いながら歩いていました」。ほろ酔い加減だったが、お酒が好きな彼女は飲みたい気分だった。所属部署でちょっとしたトラブルもあり、気分が滅入ってもいた。
ホーム沿いの白線を、黒いヒールで踏みしめるように歩いた。プラットホームを歩くとき、彼女には白線を踏む習慣がある。カツッ、カツッ、カツッ。その夜は、白線の上に憎い上司の顔を描きながら踏みつけた。
すると、10メートルほど前から歩いてくるひとりの男性の姿が見えた。明らかに、こちらを見ている。しかも、笑顔で。自分のほうをみて、微笑んでいる。
カレだ。
10年も前に別れた彼だった。髪型が少しばかり違うような気がするけれど、細身の体型からしても、夫と付き合う少し前に別れた元カレだ。婚約寸前までいったけれど、ヨウコさんのほうが、彼の海外勤務についていく勇気がなかったのだ。
ヨウコさんは、くるりときびすを返した。なぜだかわからない。(ヤバイ。ヤバイ)と心の中で焦る。何がヤバイのだ、と、もうひとりの自分が問いかける。「あら、偶然ね!」と軽く会釈して、そのまますれ違ってしまえばいいじゃないか、と腹立たしく思う自分がいれば、「会いたい……かも」と思う自分もいた。
嫌いで別れたわけではなかっただけに、思いは残っていた。でも、あのとき、仕事か結婚かで悩む彼女に、「普通、ついてくるでしょう」と言った彼の言葉は、胸の奥に残っていた。彼女にとっての仕事の重さを、彼は理解してくれなかったのだ。それに、ことあるごとに、「普通、〜〜でしょう」を繰り返す彼の口癖も嫌だった。
そして、そして、最も重要な問題は、「夜中でもう化粧が落ちちゃってた」ことだった。原始反射?か、女の性か。女性は、元カレに、不恰好な自分を見せたくないのだ。
ずんずん、歩いた。白線踏みの習慣はこの際どうでもいい。もちろん、後ろは振り返らない。あくまで気づかないフリをしなくてはならない。
(ああ、でも、どうする? 私はどこへ行くのさ。家路とは逆方向。会社に戻るのかいっ?!)
焦る彼女の左手に、幸いにも化粧室のサインが見えた。ラッキー! 心の中で叫びながら、彼女は女子トイレに飛び込んだ。そして、素早く用を足したあと洋式便器のフタをパタンと閉め、その上にどっかと腰を下ろした。
化粧ポーチ! オペ(手術)をする外科医のように、自分に命令する。黒い革バッグからポーチを取り出す。ファンデ! アイブロー! アイシャドー! アイライン! リップクリーム! 口紅、でもって、ティッシュと油紙――。
アタシ、なんでこんなに急いでんのよ……。途中でふとおかしくなったが、動き出した手は止まらない。
元カレは外で自分を待っているに違いない。「いやあ、見かけたものだから」ときっと言うだろう。そして、誘ってくるはずだ。「こんな偶然二度とないよ。ちょっと飲んでいかないか」。
恐らく、5分もかからなかったと思う。
トイレから出て、手を洗う。鏡を見たら、午前0時すぎにしては丹念過ぎるメイクではある。ティッシュを丸め、濃すぎるアイシャドーをぬぐい、焦りまくっていた形相をしっかと元に戻し、トイレから颯爽と出た。
そこには、誰もいなかった。
「そうなのよ。だ〜れもいなかったの。自分でもなんだかおかしくなっちゃってね。うちに帰りました。バーにも寄らなかった。帰ってすぐダンナの携帯に電話しました。うん、なんとなく。そのころかなり忙しくて、ちょっと疎遠だったなって思って」
偶然とは怖いもの。でも、時に自分を振り返るなにかを、プレゼントしてくれることもある。(終わり)
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