| 「偶然に感謝しなきゃ」。マリエさんは3月3日のひな祭りになると、つくづくそう思う。
数年前。30歳を過ぎ結婚したばかりのころ、夫とふた駅先にある大きなショッピングモールに出かけた帰りだった。「ひなまつりだし、夕飯のデザートに甘いものでも食べようか」。夫の言葉にうなずき、そのあたりではちょっと有名なケーキ屋さんに立ち寄った。
ケーキ屋の前には小さな黒板が置いてあった。3人ほどの子どもの名前が書かれていた。店でバースデーケーキを注文した子の名前らしい。そのなかに見覚えのある苗字があった。年齢は2歳になっている。
「愛って子の名前があったんです。苗字が結婚する前に付き合っていた四つ年上の彼と同じで。しかも、愛っていう名前は、その彼がぼくらの子どもが生まれたらつけようね、って言ってた名前だったんです。最初は絶対女の子がいい!なんて言って」
まさか、とは思った。けれど、その駅からさらに二つほど離れた駅には、元カレの実家があったはず――。
いやな、と言っていいのかわからないが、その予感は当たってしまう。
店に入ると、夫が陳列されたケーキを選び始めた。「それもうまそー。おれ、ふたつとか、食っていい?」。おどける夫に微笑を送りながら、彼女は上の空だった。
「なにかわからないけれど、遭ってしまいそうな予感がしたんです。彼がお店に来るんじゃないかって」
ねえ、いいからさ、早くしようよ――。そう言いかけた瞬間、店の自動ドアがすっと開いた。ケーキの包みを抱えたおばあさんとすれ違いに、ヨチヨチ歩きの女の子が入ってきた。手をつないでいるのは……カレだった。
「顔を合わせないようにウインドウのほうを見たりしていたんですが、ふっと振り向いたら目が合っちゃって。向こうは気づいてたみたいでした」
向こうから声をかけてきた。
「うわー。久しぶりじゃん。元気?」。彼女も返した。「ほんと、久しぶりだね。わあ、子どもさんがいるんだ」。内心はこう思う。
(何が久しぶり、だよ。別れて、たかだが3年じゃん)
ふられたのはマリエさんのほうだ。
「絶対この人と結婚するんだって思っていたカレでした。でも、ふられちゃった。部署は違うけど、同じ銀行の支店に勤めてたんです。私は結婚したら専業主婦になろうと思ってました。休みの日は、いつも彼のアパートに行ってご飯とか作ってましたね。尽くしまくってました。
でも、彼は仕事がすごく忙しくって。だんだんすれ違いになって、そのうち携帯にも出なくなって。気づいたらふられてました。君はぼくには重すぎるとか言われたんですけど、よくよく聞くと、外為にいたバリキャリって感じの年上の先輩と付き合ってたんです。もう、ショックでしたね。そのうち、彼のほうが本店勤務になって、まったく音信不通になったんです。2年以上立ち直れなかった。結婚してすぐに銀行も辞めちゃったんだけど、なんとなく彼のこと忘れられなくて。どうしても夫と比べちゃったりすることもあった。年収も高くないし、出た大学のレベルも結構下だし、彼ほど社交的な人じゃないし」
そのうえ、3年たってようやく結婚したばかりの自分、すでに子どもがいる元カレ。
「なんか負けてるじゃん、って腹が立ちましたね(笑)。しかも、私に話してた名前つけるなよって感じで」
女の子は彼に似て、ひと重まぶたで色黒だった。「ピンクのワンピースが痛すぎるほど似合ってなくて」。あんま、かわいくないじゃん――。そこは救われた。
「かみさん、今日仕事でさあ」と彼は親しげに話してきた。傍らにいる夫に気づくと、ちらりと目をやり会釈した。「あ、どうも」
彼女は夫を紹介し、夫に言った。「銀行に勤めてたときの先輩なの」。夫はきちんと挨拶した。
「おれ、金払ってくるから、お話してたら?」と夫はレジへ向かった。すると、彼が聞いてきた。「ダンナ、どこにお勤め?」。彼女は返した。「A商店」。彼は「あ、そう」とうなずいた。ふふん、と笑われたような気がした。
「そのとき、彼にちょっとだけあった未練が吹き飛びましたね。ああ、こういう人だったんだって。っていうか、元からそういう人だったんですよ。誰に対しても上から目線。すぐに学歴とか勤め先とか気にするの。そうだよ、元からそうじゃん! それに、夫の表面的なことばっか気にしてるのって私じゃんって。そのときに気がついたんです」
夫はやさしく誠実で思いやりがあり、何の不満もない。2歳の長女のよきパパだ。目がパッチリした色白でかわいい女の子に恵まれた。テレビで「愛ちゃん」という名前を聞くと、彼の娘を思い出す。そのたびに「ふふん」と心の中で笑ってみる。
その後ケーキ屋には何度か行ったことはあるけれど、彼と遭遇することはない。(終わり)
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