| 光が差し込むリビングで、ヨシミさんはティッシュの上に置いた筒状の妊娠判定薬をぼんやり見つめていた。「判定窓」と呼ばれる部分に、赤い線がくっきり浮かび上がっている。彼女が妊娠したことを告げていた。
この赤い線を見て飛び上がって喜ぶ女性と、目の前が真っ暗になる人とでは、どちらが多いのだろうか――。
明らかに後者である自分はどうしたらよいのか……。具体的なことは何も思い浮かばない。妊娠の事実に、彼女は打ちのめされていた。
「1週間くらい、仕事も手がつかなかったですね。2日間、欠勤しましたから。でも、それから少しずつ正気になっていったというか……。とりあえず、夫に話そうと思いました。それなりに喜ぶだろうとは、まあ予想はしましたね。でも、きっと子育ては私ひとりに押し付けられるだろうと。ただ、子どもができて夫が変わるかもしれないという期待は、ほんの少しだけありました。もしそうなったら、私たちの関係も変わるかもしれない。もし、変わらなかったとしても、私はこの子を支えに生きていけるだろうと。私がひとりで育てていけばいいやって思いました」
産む決意をしてから、産婦人科に出かけた。妊娠3か月に差し掛かったところだった。超音波の映像画面に、小さな魚のような存在が見えた。プリントされた紙をビニールファイルに挟んで持ち帰った。
ノートパソコンを妻に投げつけたことが少しは気がとがめたのか、夫の週末帰りの頻度は減っていた。久しぶりに帰宅した夫に告げた。
「妊娠したけど」
夫は「うそでしょ」と言った。嘘をついてどうするのだ、と思ったが、小さな魚のプリントを見せた。夫はその紙をつかむと、何も言わずに、すぐさまひとりで実家へ報告に行ってしまった。
「まあ、なんとなく予想されたリアクションでしたね。跡取りができた、とかそんな感じで盛り上がったみたいでした。すぐに姑から電話がありましたから。ええ、そりゃあ、喜んでましたよ。おなかの赤ちゃん、大事にしてね、大事にしてねって何度も言われましたね」
不思議なものだ。命が宿ったことを知った日から、ヨシミさんにも母親の自覚が芽生え始めた。本屋に行って、のぞいたこともなかった絵本コーナーに足を運ぶようになった。最初にどの絵本を読んであげようか。そう思うだけでワクワクした。それに、つわりは思ったよりもきつくはなかった。夫も以前より、彼女にやさしく接するようになったので、彼女も、以前のようにとげとげしく接することもなくなっていた。
妊娠してからも離婚の二文字が頭から離れたことはなかったものの、一方で「やり直せるかも」という気持ちも生まれていた。もっと夫といろいろな話をして親密になりたいとまで思い始めていた。平日に夫へメールを書いたりするようになった。母親になる思い、日常の些細なことをしたためた。夫の返事は短かったが、夫との関わりが生まれたことにヨシミさんは満足していた。
ところが、おなかが徐々にふくらむにつれ、夫が週末に帰ってくる回数は減っていった。
「なんかおかしいな、って思い始めた矢先でした」
知人から電話があった。夫に浮気の噂があるということだった。相手は大学の事務職員の女性だった。
「噂の範囲だし、今、あなたはおなかも大きいんだしさ。どうしようかって悩んだんだけど、知らん顔するのもどうかと思って」
電話の主とはそんなに親しいわけではない。親切心ではないように感じた。「ほらみたことか」といわれているような気さえした。
「浮気の噂があるよ。どういうわけなのかな」
彼女が切り出すと、夫は少しばかり狼狽したようだった。「え? ええっ? だ、誰がそんなこと言ってんの?」としつこく聞いてくる。だが、彼女は質問には答えずに、つかんだ「ネタ」をぶつけてみた。
深夜に一緒に歩いているのを見た人がいる。一緒に車に乗っているのを見た人がいる。食事をしているのを見た人がいる――。だが、夫は深い関係ではないとシラを切った。
「あまり同じ女性と一緒に過ごすのはどうかと思うよ。誤解されるんじゃないかしら」
ヨシミさんがやさしい口調で話すと、夫は安心したように「そうだね。気をつけるよ。なんかさー、事務室でゴタゴタあって悩んでるらしくってさあ」と、作り笑顔で説明した。
「相談に乗ってあげてるんだ。あなたのパパはやさしいでしゅね」
おなかの子に向かって話しかけた妻に、夫は少しばかり一瞬ムッとしたようだったが、かすかに深呼吸をして外した眼鏡をハンカチで拭いた。見たことのない、ペーズリー柄の派手なハンカチだった。
彼女は浮気を確信した。(次週に続く)
|