離婚を考え始めたころ、夫が異動になり、隣県の大学に勤めるため単身赴任をすることになった。
「ほっとしました。とりあえず離婚は先延ばしにして、その間に力を蓄えようと思いました」
研究に没頭するとともに、研究会やシンポジウムに足しげく通うなどして人間関係を構築することに力を注いだ。研究者、大学職員として、舅の後ろ盾がなくても道を開いていくためだ。夫がいない平日は自分のために時間を使え、快適な毎日だった。
ただし、ひとりで何もできない夫は、週末のたびにヨシミさんのもとへ戻ってきた。帰ってくれば一緒に夫の実家を訪ねなくてはならない。土日に出かけたい研究会があっても、キャンセルしなくてはならなかった。一度、そちらを優先して夫をひとりで行かせたら、姑から携帯にメールが入った。「仕事も大事だろうけれど、夫婦の時間を優先すべきじゃないの? ○○君(夫の名前)は寂しいみたいよ」。
専業主婦だった姑の、女性としての嫉妬は感じていた。「私は世間知らずさんだから。パパ(舅)からは、永遠のお嬢様ってからかわれるのよ」が姑の口癖だった。そう言いつつ、最後に必ず付け加えるフレーズがあった。
「でも、仕事より大事なものは世の中にたくさんあるわ。家族とか、子育てとかね」
専業主婦だった姑が、働く嫁の自分にジェラシーを抱いていたのは十分わかっていたが、彼女にすれば逆に快感だった。
「私はあなたとは違う、って心の中でいつもつぶやいていました。そうやって嫁への嫉妬を隠せない姑がみすぼらしく見えたほどです。っていうか、彼の家族の中で、私が立場的に勝ってるのは姑だけだから……」
姑からのメールよりも、夫のほうに腹が立った。自分にはひと言も言わずに送り出しておいて、母親に愚痴った夫のほうが、ヨシミさんは許せなかった。
週末に戻るたび、夫はセックスを強要した。手をはねのけると、怒った。
ある日曜の夜。隣のベッドから夫の手が伸びてきた。
「疲れてるの。勘弁して」。
夫は「おまえ、それでも妻なのか。何も役目を果たしてないじゃないか」と罵倒した。
妻としての役目を果たしていない? 夫の言葉がひどく陳腐なものに映った。
「知識層といわれる大学教員の使う言葉かよ!って思いましたね。そう思ったら、なにかおかしくなって、プッて吹き出しちゃって」
すると、夫はひとりスタスタとリビングへ消えた。いつものようにビールでもあおっているのだろう。さあ、寝ようっと――。そう考えて、彼女が寝返りを打った瞬間、何かで頭を殴られた。逆上した夫が、ノートパソコンで彼女の後頭部を殴ってきたのだった。
「キャーッ!何するのよっ!」
頭を両手で覆いながら振り向くと、鬼のような形相で仁王立ちした夫が、パソコンを両手に持ち振りかぶった。そして、壁に叩きつけた。隣家と隔てた壁ではなく、リビング側の壁にほうり投げたのは、多少の理性が働いたのだろう。
呆然とする彼女の上に、夫は覆いかぶさってきた。衣服をはがされながら、床の上に転がったノートパソコンを見つめた。一部バックアップはとっていたものの、貴重な研究データが入っていた。当時の彼女にとっては宝物のようなものだった。
ヨシミさんは涙を流しながら、死体のようにベッドに転がっていた。強姦に近い行為によるヒリヒリするからだの痛み。心の痛みと屈辱。そして、結婚を選択した自分を呪い、離婚できない自分の打算を呪う自責の感情――。
号泣する自分のからだの上で、「おまえが悪いんだからな」と、何度もつぶやきながら夫は行為を続けた。薄く開けた目から、小刻みに揺れるクリーム色のカフェカーテンが見えた。大学時代の友人が結婚祝いに贈ってくれたものだった。
「玉の輿だよ。うまく乗ったら、降りちゃいけないよ」。
そう彼女にささやいた女友達。メーカーに就職した彼女はもうすぐ結婚する。首都圏にいる婚約者のもとへ嫁ぐ。「私は専業主婦になって子育てするわ。ヨシミは有名な大学教授になってね」と言われたのは、ひと月ほど前だっただろうか。
「玉の輿どころじゃない。彼は悪魔だと思いました」
ひと月後、彼女は生理が遅れていることに気づいた。(次週、中編Aに続く)
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