FILE.25 離婚しない理由
【前編】打算 08.02.19
 ヨシミさんは大学で教鞭をとる研究者。30代で小学生の息子がひとりいる。夫も大学の教員で舅も大学教授。その舅が彼女の担当教官だったことから、二つ年上の夫と知り合った。
 「私は若いときから上昇志向が強い学生でした。大学に残ってやりたい研究を続けていく人生を選択したけれど、大学って派閥があるんですね。なにかこう、有利なコネクションがないと道は開けない。
 大学院に進んだとき、周囲の先生や研究者をみていて痛感していました。でも、私はごく普通のサラリーマン家庭というか、父親は省庁務めでしたがノンキャリアで……。なにも後ろ盾がなかった」
 父親の研究室によく遊びに来ていた夫と付き合い始めたころ、先輩や友人からよくいわれた。
「玉の輿だよ。うまく乗ったら、降りちゃいけないよ」

 「彼は一族郎党大学勤めという家の長男でした。最初はそんなに意識しなかったけれど、彼が先に大学に勤め始めて、すぐにプロポーズしてきたんです」
 結婚はまだ早いのではないかという思いと、ここを逃してはならないという打算。その間で揺れていた。
「彼が好きだとか、本当に愛しているのかどうかなんていう天秤は、私のなかにはありませんでした」
 結局、ヨシミさんの大学院卒業まで待ってもらうかたちで結婚。夫婦は盛大な式を挙げ、夫の実家近くのマンションで新婚生活を始めた。彼女の就職先は舅が決めた。隣の市の大学で申し分のないポジションだった。
 新婚当初は快適だった。お坊ちゃま育ちの夫はマンションの契約、引越しの手配などすべてヨシミさん任せだった。
「君はしっかりしてるから助かるよ。君についていくよ」とうれしそうに笑った。3人姉妹の長女で育った彼女は頼られることが喜びだった。加えて、やりたい仕事、経済的にも恵まれた環境のなかで幸せだった。
 ところが、結婚後しばらくして、夫への愛情はみるみる冷めていった。
「最初は好きだという気持ちがなかったわけではないのです。でも、付き合うのと夫婦として暮らすのって、まったく違いましたね」

 まず、家事分担でもめた。夫が手伝うのはゴミだしのみ。毎朝ゴミ袋をもち、嬉々とした顔で近所の人にあいさつをしながらゴミを出す。

「偉い大学の先生なのに、本当に立派な旦那さまだこと」
 同じマンションに住む姑のお花の先生からそういわれるたびに、作り笑顔で、「おかげさまで助かっています」と答えた。心の中で舌打ちをしながら……。
「共働きなんだから、家事は平等に分担してください」。
 夫に訴えたら、こう言われた。「家庭の中での、女性の役目っていうものがあるだろう。僕は家事なんかやらされたこともないし、興味もない。得意なほうがやればいいでしょう」
 まったく話にならなかった。それでも食い下がって「それはおかしいでしょう」と反論すると、夫は逆上した。
「あのね、君。世の中の仕組みっていうものをわかってないね。君の今のポジションは君ひとりの力なの? そうじゃないよね。女でいきなりこの仕事は普通、ないよ。分不相応だってわかってる? うちの親父のおかげでしょう。自分のアドバンテージってものが、君にはわかってないようだね」
 激しくののしりながら、ヨシミさんを殴ることもあった。
 夫の言う「アドバンテージ」は、夫自身のことを指していた。ひとかけらほど残っていた夫への愛情は、この瞬間彼女の中で雪が溶けるように消え去った。

 数か月は戦ってみたが、彼女は家事分担を諦めた。
「ジェンダーとかやっている他学部の先生に相談したら、別れたほうがいいと即答でした。でも、彼と別れられるわけがない。別れれば、私は即大学を追われることはわかってますから」
 玉の輿は、甘いものではなかった。
(次週に続く)
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