FILE.24 結婚しない理由
【後編】偶然の再会 08.02.12
 サヤカさんのうつ状態は、半年ほどで回復に向かった。
 「時間がたって、父親は、ここ(家)には来ないんだという確信がもてたんだと思います」
 新しい年になって気候も春めいてきたころから、夜中に飛び起きることもなくなった。玄関の音も気にならなくなってきた。大学生活にも慣れ、ボーイフレンドもできた。気心の知れた女友達と一緒にバイトをしたり、旅行に行ったりと忙しく時間は流れていった。
 女3人の暮らしにも慣れてしまった。「防犯用に」と、しばらく置かれていた父親の黒いこうもり傘は、いつの間にか玄関先からなくなっていた。年末の大掃除をするたびにどこからか出てきた父親の荷物も次々、と処分された。洋服、本、ゴルフバック……。自分たちには知らされない父親の新しい住所に、母親はせっせと送り続けた。

 だが、ひとつだけ、母親がそのままにしてあるものがあった。離婚届だ。
 「母には聞けないので、姉に聞いたことがあります。どうして別れないんだろうね?って。生活費とかも最初からもらってもいなかったし、母親はとうに扶養をはずれて働いていました。どうも、やはり、父親が会社のほうとかに言うのがイヤだからじゃないか、っていうことだったんですが。私にもよくわかりません」
 そのうち父親のことも思い出さなくなり、サヤカさんは大学を卒業し社会人になった。事実上の母子家庭だったから、勉強して奨学金をもらいながらなんとか卒業した。職場で今の彼と出会い、付き合い始めた。父親の話もした。
「変わった家族でしょ」と言ったら、「別に変わってないよ。熟年離婚なんてすごく多いよ」という。
「うちの母親もお父さんが定年になったら家を出て行って欲しい、なんて言ってるよ。おれらの父親世代って、ずっと意味もなく威張ってきたから、みんなしっぺ返し食らってんじゃないの」  世の中、そういうものかと思ったら気持ちに楽になった。

 父親の生年月日も思い出せなくなり、父の日が来ても、心はざわつかなくなった。そんな、2年ほど前のある冬の日。雪こそ降りはしなかったが、凍てつくような寒さの昼下がりだった。サヤカさんは外回りで電車に乗っていた。電車は時間調整のためにしばらく駅に停まっていた。隣のレールに逆方向へ進む電車が滑り込んできた。
 携帯メールを打った後、なにげなく顔を上げた彼女はハッとした。
 向かい合わせの電車内に、中年の男性が立っている。父親に似ていた。曇っているわけでもなかったが、目の前のドアの窓を手袋で拭いて目を凝らした。
 「お父さんだ……」。
 もう何年も前に母親が送り返した、見覚えのあるグレーのコート。いつも家の階段の下に置かれていた黒い革鞄。髪形は変わっていないが、出て行ったときよりもかなり白髪が増えている。 (他人のそら似だろうか……)
 そう思った瞬間、目が合った。
 何秒もなかったと思う。だが、男性は目をそらさなかった。じっと見ている。けれど、外の空気のように表情は凍りついたままだ。呆然としているように見えた。
(お父さんなの?)
 動きそうになる唇を、ぐっと噛みしめた。電車を飛び出して、話をしにいきたい衝動もなくはなかった。けれど、足が動かない。
 すると、男性はくるりと背を向けた。と同時に、サヤカさんの電車が先に動き始めた。背を向けたままの父親の頭が、うなだれたように下を向いたような気がした。幼い頃、あんなに怖かった父親の背中はそこにいる誰よりも細く、小さく見えた。
 そして、折れ曲がった車両とともに、視界から消えていった。涙があふれた。理由はわからない。でも、涙は止まらなかった。

 「あんな偶然、二度とないよって思いました。もう会うことはないような気がします」
 口を開いたサヤカさんの目は潤んでいた。縁は切ったも同然の父親だが、血のつながりは切られることはない。彼女の心のどこかに、父親を求める気持ちのかけらは残っていたのだろう。  偶然の、一瞬の再会。だが、彼女は母親にも姉にも、このことを話してはいない。
 「話せば母が辛くなるでしょう。もう、父親不在の生活は日常なんですから」

 けれど、父親のうなだれた背中の残像は、彼女の心から消えない。
 「あの時以来、家族ってなんだろうってずっと考えてます。私に家族をつくれるのかな、とか。いろいろ。父は今間違いなく幸せじゃないですよね。私たちも子どものころ、決して幸せじゃなかった。じゃあ、私は幸せな家族をつくれるのかなって、なんとなく不安になりますね。私の彼は父親とは違う人格だし、時代も違うしって思うんですけど、なんとなく吹っ切れなくて……」
 自分の気持ちが吹っ切れるまで、結婚はしないという。
 「自信がないんです。幸せな家族の風景とかが描けないんです。もう少し彼と付き合ってみて、そういうものが浮かんできたら(結婚に)踏み出そうって思ってます」
 結婚が人生のひとつのゴールなら、彼女はようやくスタートラインに立ったところなのかもしれない。
(終わり)
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