FILE.24 結婚しない理由
【中編】透明な存在の父 08.02.05
 「小さいころから、いつも帰りは遅いし休日出勤だ、接待ゴルフだと家にいることのない父親でした。遊んでもらった記憶もないですね。でも、逆に何か悪い思い出があるわけでもないんですよ。私の前で母に手をあげたこともなかったし、母親から父の悪口を聞かされてもいないし。なんとなく、最初からいなかったのも同然、みたいな父でしたから」
 父親が出て行った夜。母親は初めて、姉妹を前に自分たち夫婦のことを話してくれた。浮気が絶えなかったこと。家計は父親が握って、家に満足にお金を入れなかったこと。パートに出ようとすると「世間体が悪い」と反対されたこと。暴力が絶えなかったこと――。
 そして、最後に母親は言った。
 「25年間、本当につらくて苦しかった。何度も死のうかと思ったんだから。結婚なんてするもんじゃないよ」

 父親が出て行った後、母親は見違えるように明るくなり、パート勤めに出るようになった。
 「それに母ったら、すごくスマートになりました。身長150センチで70キロくらいあったのに、10キロ以上痩せちゃったんです。特にダイエットしたわけでもないのに」
 母親は「お父さんといること自体がストレスで、過食気味だった。今はお腹いっぱい食べなくても平気になった」と話したそうだ。パートを始めて最初のお給料で、化粧品を5万円分買い込んできた。父親の目を気にして購入できなかった口紅、アイシャドー、高級クリーム、そして、香水の瓶。パッケージから取り出し、テーブルの上に一つひとつうれしそうに並べた。
 化粧水などを並べる指には、薄いピンクのネイルが塗られていた。初めて見る母の色づいた指先。慣れないためか、指にまではみ出している。「お母さん、塗るの、へたっぴいだねえ。中学生みたい。それに、まず爪のお手入れしなくちゃでしょう。今度、教えてあげるよ」と、姉がからかった。
「そう? じゃあ、今度、お化粧も教えてね」
 そう言って微笑む母親を、「やる気満々だねえ」と笑いながら、サヤカさんは胸が熱くなった。
「お母さんは25年間、本当にいろんなことを我慢してきたんだなって思うと、鼻のところがつーんとしてきちゃって」
 ふとみると、姉も目を潤ませていた。
「女3人でがんばろうよ。私もバイト増やすからさ」
 姉は長女らしくみんなを励ました。

 ところが、サヤカさんは、しばらくして「父親の影」に苦しむことになる。
 「母や姉には気づかれないようにしていたのですが、父が出てすぐは少しうつっぽくなりました。自分でもなぜかわからないのですが、気持ちがすごく不安定になってしまって……。特に、夜になると不安で、不安で、たまらなくなるんです」
 夜中に飛び起きて、何度も玄関にちゃんと鍵がかかっているかどうかを確かめに行くようになった。夜、食事の後にくつろいでいても、玄関先や勝手口で何か物音がすると、「キャーッ」と自分でも驚くほどの悲鳴を上げてしまう。
「いきなり父親が家に入り込んでくるんじゃないかとか、私たちに何かするんじゃないかとか、すごい妄想にかられてしまって……。怖くて、怖くて、たまりませんでした」

 ガチャッ、ガチャッ。
 夜中に鍵をかけなおしては、確かめるようにドアのノブを引く。
「サヤカ、大丈夫だよ! お父さんはそこまでしないったら」
 物音に気づいて起きてきた母親に腕を引っ張られる。「わかんないじゃん!お父さん、私たちのこと、恨んでるかもしれない」。母親の手を振り払って、サヤカさんは何度もノブに手を伸ばした。
「サヤカ、ごめんね、ごめんね。お母さんが悪かったね」
 涙を流しながら謝る母親の前で、サヤカさんは子どものようにわんわん泣いた。
「私、かなり異常かもしれないって、自分でも思いながらやってましたね。でも、とにかく不安感が押し寄せて、どうにもなりませんでした」

 姉に、「お姉ちゃんは不安じゃないの?」と尋ねてみた。姉はすでに父親のことを「あの人」と呼ぶようになっていた。
「サヤカはさ、あの人とほとんど接触がなかったからじゃないの? 知らないから、よけい不安になるんだよ。私は少しはわかってるつもり。あの人は世間体を気にする人だからね。うちに来て暴れたりなんか絶対にしないってば」
 その通りなのかもしれない。父親がどんな性格なのか、サヤカさんはつかみようがなかった。そのくらい、父親は彼女にとって透明な存在だった。透明で、見えないからこそ、彼女の中で妄想がふくらんだのだろう。
 不安にかられる発作は半年ほど続いた。
(次週に続く)
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