FILE.24 結婚しない理由
【前編】出て行った父 08.01.29
 メーカーに勤めるサヤカさんは28歳。交際して4年になる四つ年上の彼がいる。
「去年の秋、プロポーズされました。春には結婚しようかと。彼ですか? ええ、すごくいい人ですよ。やさしいし、頼りになるところもあるし。3人兄弟の真ん中で、明るい人です。もうずっと前から、ああ、この人と一緒になるのかなと思ってましたから、うん、そうだね、って一応答えたんですが……」
 OKはしたものの、婚約も式の日取りも、まだペンディングにしてある。
「彼にはもう少し待ってほしいと言いました。理由ですか? うーん。彼には仕事の区切りがつかないからと言ったんですが、本当は違うんです」

 彼女はそこから自分の両親、家族のことを話し始めた。
 サヤカさんは二人姉妹。四つ年上の姉がいる。姉は2年ほど前、長く付き合った彼と別れてしまった。理由はわからない。「私は一生、結婚しないわ」と、仕事にまい進している。
 両親は長い間、別居したままだ。離婚はしていないが、父親とは10年間、一度も会っていない。

 父親が出て行ったのは、サヤカさんが大学に入ったばかりの梅雨のころだった。
 ある土曜日の夜。バイトを終えて家に戻ると、母親が、居間で父親と向かい合わせで座っていた。
「テーブルの上に緑色っぽい書類がありました。見たことはないけれど、それが離婚届だってすぐにわかりました。片方の欄には母の名前が書いてあって、印鑑も押されていたと思います。でも、父親の記入欄っていうか、そこの部分は空白でした。私が居間に行くと、二人とも下を向いて、何も言わなかったけれど、ああ、とうとう(離婚)するんだなって思いましたね」

 家の中で何が起こっているのか。それは、両親の説明がなくても、小さい頃から空気を感じ取る癖がついていた。
 真夜中の両親のいさかい。
 声を殺して泣く母の嗚咽。
 子ども心に心配になって「のどが渇いた」と起きたことも、一度や二度ではない。台所でコップに水をついでくれた母は、彼女が飲んだあと同じコップで水を飲んだ。涙を流しながら、酒をあおるように水を流し込む母親。流しの白熱灯に浮かんだ白い喉元が、今でもくっきりと蘇る。その後は、きまって彼女の布団で一緒に寝た。
「心配しなくていいのよ、とかそういう言葉もなかったですね。おとなしくて物静かな母なので、私に何か愚痴ると言うことはなかったです。そのぶん、姉には話をしていたようですけど」
 サヤカさんが中学生の時急死した祖母が同居していたころは、嫁姑のいさかいも激しかった。早くに親を亡くしていた母親は帰る実家もなく、ひたすら我慢しているようだった。父親にはかばってもらえなかったのだろう。姑と衝突すると、翌日はきまって父親の朝食と弁当を作らなかった。テーブルに並ぶ姉妹の弁当箱をにらむようにして、父親は何も食べずに仕事に出た。
 バシッ。
 決まって、玄関のドアを力任せに閉めて出て行った。
 サヤカさんは仲のよい両親でないことは感づいていた。自分たちの運動会、入学式と、家族が笑顔を見せ合うイベントに父親は不在だった。ごくたまに来ても、母親と笑顔で言葉を交わす場面など見たことはなかった。静かで冷たい両親の関係はつらかった。
「でも、しっかり者の姉が、自分を支えてくれたんだと思います。親がけんかを始めると、よく私を近所の公園に遊びに連れて行ってくれました」

 そして、雨が降る土曜日の夜。父親は離婚届に判を押さないまま、荷物も何も持たずに出て行った。二人の娘たちに、ひと言も言い残すことなく……。
(中編に続く)
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