FILE.23 産まない理由
【後編】母への憎しみ 08.01.22
 彼がサキさんの両親と初めて顔を合わせたのは、花が飾られた家ではなく産婦人科の病室だった。
「このたびは、本当に申し訳ないことをしてしまって……」
 いつも生き生きしている彼が、自分の父親の前でうなだれていた。
「この責任はとります。サキとこれからのことは話し合いますので……」
 ベッドの上で、布団で顔を隠したまま、サキさんは泣いた。
「自分も何かいわなければ、と思いました。彼だけが悪いんじゃない。(結婚も)すべて白紙に戻してもらってもいいと言わなくてはと、一生懸命泣き止もうとしたんですけど、感情がおさまらなくて……」

 そのときだ。
「ピシャッ!」
 布団をかぶったサキさんの耳に、誰かが誰かを平手打ちしたような音が聞こえた。布団をあごまで下げて目を見開くと、仁王立ちになったサキさんの母親と彼がいた。母親が彼の頬をぶったのだ。
 「あなた、ね、話し合うとかじゃないでしょう。サキをもらってくれなくては困ります。サキはね、もう傷物になったんですよ。どうしてくれるの? あなたのせいで幸せな結婚はもう望めません」
 唖然とする彼の前で、サキさんは父親と目線を合わせた。
「お母さん、またダメになった」――。
 言葉はなくともお互いの考えていることはわかった。父親は首を横に振り、彼に向かって言葉をかけた。
「今日はわざわざありがとう。ちょっとサキを頼みます」
 そして、真っ赤な顔をして立ち尽くす妻の肩を抱えて、病室から出るように促した。
「ママ、ちょっと、お話しようか」
 だが、混乱する母親は激しく抵抗した。ベッドの横のパーテーションが倒され、サキさんの横たわるベッドは壁に激しくぶつかった。看護婦が駆けつけ、医師もやってきた。
「もう、なんていっていいか……。ショックを受けた母は、その場で暴れだしちゃったんです。私は赤ちゃんがダメになったことよりも、母の、その、そんな姿を彼に見られてしまったことのほうがこたえました。もう、どうしていいのかわかりませんでした」

 会社には腸炎ということにしてとった数日間の休暇の後、彼に会った。すぐにプロポーズしてくれた。会社帰りに父親と落ち合い、3人で話した。彼はサキさんの母親のことも受け止めてくれていた。
「彼の両親からは、どうして(結婚を)そんなに急がなくちゃいけないのだといわれましたが、彼が早く一緒になりたいの一点張りで説得してくれたみたいです。それで、私、結婚できました」

 数か月後、挙式した。母親の状態がよくなるまで、時間をおいたのだ。
 披露宴の日。支度のできた花嫁のもとに、母親が顔をみせた。
 「サキちゃん、結婚できてよかったね。ママがお嫁にもらわないと許さないわよ、ってM君に言ったからよ。ふふふふ」
 母の言葉に、彼女は息をのんだ。
「母はわざと混乱したフリをしたのでしょうか。一瞬、そんなことも頭をよぎりました。でも、父に言ったら、そんなわけはないよって。普通の母親でも、あのくらいのことは言うんじゃないかって言うので、そうなのかなと思ったんですけど。いまだにわかりません」
 今も母親の状態はよくなったり、悪くなったり。入退院を繰り返している。

 その後、数年して彼の転勤で地方を転々としている。サキさんは最初の転勤の際に会社を辞め、赴任した土地では派遣社員として働いてきた。
「結婚してから本当にいろんなことがありました。あんなに結婚したかった夫なのに、別れようかと思ったことも、一度や二度じゃありません。でも、(夫が)荒れた原因は子どもができないからなんです。私が子どもを産めないから……」
 最後は涙声になった。
 聞けば、結婚して7年後くらいに、夫に多額の借金があることが判明した。彼女が母親の看病や父親の世話で長期間家を空けているとき、遊びやギャンブルに使ったらしい。額は150万ほどだったが、高卒の給与で不況のなか返済はたやすくない。彼女は、「これから子どもを持てば生活だって大変なのに」とこぼしたら、夫はこう言った。
 「子ども、産めんの? おれはもう、あきらめてるよ。別におれら、貯金なんかする必要、ないじゃん」

 ショックだった。そんなことがあってから、夫への愛情がだんだん薄れていった。そして、セックスレスになった。
 「子どもなんか作ってないのに、周囲からは(子どもは)まだか、まだかって言われて。もう、本当にいやなんです。最初は欲しかったからがんばったけど、できなかった。母親のこと? それはもう特に気にしてません。
 でも、できなかったんです。不妊治療もしたけれど、お金がついていかなかった。夫は子どもが欲しくてたまらないんです。夫の姉のところの子どもを、すごくかわいがりますから」
 サキさんの涙は止まらない。
「もう、正直に言いますけど、ずっと前から母親が憎くてたまらない。私のほうが母親のことを受け止められてないんですね。だから、(子どもが)できないのかもしれません。カウンセリングでも、心を平穏に保つことが一番だと言われたんですが……」
 子どもをもつことで、幸せではなかった自分の生い立ちの闇を埋めたい夫。
 心の病をもつ母親を抱え、その存在を受け止められず心がざわついたままの妻。
 「最初の妊娠はなんだったの?って、よく思います。子どもがいないと、やっぱりだめなのかなって」
 離婚の二文字のまわりで、彼女はずっと揺れている。
(終わり)
※メールは、件名を「ルネッサンス」として、コチラへ。
※過去のファイルについてのものでも結構です。
※スパムメールとの区別のために、件名明記で。