冬の公園のベンチで、サキさんは心の病を患った母親のことを話した。幼なじみの数人しか知らない、自分の心の底に横たわる苦しみ。打ち明けているうちに、膝の上に置いたハンドバッグに涙がぽたぽた落ちた。
彼はじっと前を向いたまま、サキさんの話を聞いていた。ひとしきり話し終えた後、しゃくりあげるように泣く彼女の背中をやさしくなでた。
「涙からも湯気があがるんや。ほら、サキちゃんの顔のまわり、白くなってるで」
やさしさが胸にしみた。
「心の病気ってさ、そんなん、遺伝とかせえへんと思うで。大丈夫や。おれらの子どもやろ? 産んでよ。おれも子ども欲しいもん」
21歳の彼の言葉は、意外なものだった。
「でも、そんな若いのに、もうお父さんになっていいの? それに……」
自分との結婚などあなたは考えていなかったでしょう? できちゃった婚でいいの?――。そう聞きたかった。
彼はサキさんの心を見透かすように答えた。
「おれ、サキちゃんとはちょっと違うけど、けっこう生い立ちが不幸やん。おかあちゃん一回離婚してて、おとうちゃん他人やし。早く自分の家庭が作りたかったんや。それにさ、早く子ども作って育てて、あとで遊ぶっちゅうこともできるやろ」
彼の家庭の事情も、このとき初めて知った。彼が小学生のころ、母親は彼と姉を連れて家を飛び出した。事業に失敗し多額の借金を抱えた父親は、暴力団と関係をもち暮らしは荒れていたという。
「本当のおとうちゃんに遊んでもらった記憶もないで。今のおとうちゃんにもないけどな。おかあちゃんは、今のおとうちゃんの顔色ばっかりうかがってな。ねえちゃんはもう大きかったからそうでもないけど、おれなんか、ようビンタされたで。自分の子やないからな。かわいいわけないわな。そやから、おれの人生の目標は、日本一いいおとうちゃんになることや。こんなに早く、チャンスがめぐってくるとは思わんかったけどな」
彼の思いやりがうれしかった。足元からしんしんと襲っているはずの寒さも忘れ、二人でお互いの子ども時代を語り合った。
「なんや、おれら“かわいそうペア”やなあ。ちょうどいいやん」
まぶたをふくらませながら明るく言う。自分とは違う不幸な子ども時代をくぐりぬけてきた彼が、いっそう愛しく思えた。
妊娠3か月を過ぎたあたりで、サキさんは両親に妊娠を打ち明けた。ちょうど母親は落ち着いていた時期で、母親らしく娘の体調を気遣ってくれた。世間体を気にするタイプの父親は、ひとり娘の妊娠をあまり快くは思っていなかったようだが、喜ぶ妻の姿に次第に受け入れる気持ちになったようだった。
「おれもおじいちゃんになるのか。それもいいな」と言ってくれた。
「安心しました。彼はとりあえず私の両親と会って、許しをもらってから彼の実家のほうにも話すと言ってくれました。まだ付き合って1年もたってなかったけれど、私は彼のことを信頼していたし、何より彼のことが好きでした。母親のこともあって、自分は結婚は無理だって思っていたので、本当にうれしかったです。ちょっと前までけっこう寂しいOL生活だったのに、夢みたいでした」
仲のよかった同僚のひとりには、結婚することを打ち明けた。
「やったじゃん! 絶対カワイイ子が生まれるよ。よかったね」
そう言って祝福してくれた。
彼が両親にあいさつに訪れる日の前日。サキさんは母親と家の掃除をしたり、食事の買い物に行ったりと忙しかった。母親は、デパートで花瓶を買った。家の中に花を飾ったことなどなかった母親の変化が、うれしかった。
その夜、歯磨きをしていたときだ。下腹部に痛みを感じた。
「なんだろう。まさか、いきなり赤ちゃんが動くわけないし」
そう思った瞬間、太ももにぬるっとした感触があった。出血していた。ふと目の前の鏡の中の自分をみた。血の気が抜け、顔が真っ白になっていた。早く床に入っていた父親を起こし、車で救急病院へ向かった。
流産していた。(次週に続く)
|