FILE.23 産まない理由
【前編】妊娠 08.01.08
  サキさんは35歳の会社員。四つ年下の夫がいる。結婚して9年たつが、子どもはまだない。
「ダンナさんの両親から、まだか、まだかといわれて……。いい加減、いやになっています」。そう言って目線を落とした。

 夫は、彼女が勤めていた会社の取引先の社員だった。何社の社員が集まった合コンで何度か顔を合わせた。明るい性格でいつも話題の中心だった。まだ20歳を越えたばかりなのに、よく気配りをするので誰からも好かれていた。歌が上手で二次会のカラオケでも人気者だった。会社で彼からの電話をとると、「もうかってまっか?」と言ってひとしきり世間話をした。若いのに、スポーツ、音楽と話題が豊富な彼の話に、サキさんは引き込まれた。しかも、180センチの長身で容姿も申し分なかった。前の年のバレンタインデーにはチョコを30個もらったという噂も聞いた。
「Mさん、かっこいいよね。性格もいいし、仕事もできるしさあ。ただ、若すぎるのがねー。そこがネックだよねー」
 同期の女性の同僚たちが、給湯室でそう言い合う声が聞こえた。
「私もおんなじことを考えてました。実は25歳を目前にして、私、バージンだったんです。ボーイフレンドみたいな人はいたんだけど、そういう関係にならなくて。っていうか、そういうことを意識的に避けてきたんですけど……。そのときはもう3年くらい付き合う人もいない状態でした。休みの日が暇で、暇で。ゴールデンウイークとか、夏休みとか、もう寂しくて仕方ありませんでした。早く会社に行きたい、会社に行けば彼と電話で話すことができるし、たまに打ち合わせとかでうちの社に来ることもあったし。会えるのが楽しみでした」

 合コンがあると、なるべく彼の近くに座った。隣に座ったこともある。他の男子社員からお酒の席でからかわれたりした。
「サキちゃんは、M君がお気に入りなんじゃないの?」
 恥ずかしがりやの彼女は赤面した。
「さあ、M君、サキ姫を送ってあげて」。
 直属の係長が気を利かせて言ってくれた。彼は照れくさそうに一緒にタクシーに乗ってくれた。
「タクシーの中で、酔った勢いで告白してしまいました。実は好きなんですと。そうしたら、彼は肩に手を回してきました」
 夢のような夜だった。そして、サキさんが「初めて」だったことに、彼は驚いていた。 地方出身の彼には地元に彼女がいた。けれど、自然消滅する直前らしかった。サキさんはスパートをかけた。休みの日に遊園地や映画に誘った。母親に手伝ってもらって弁当を作り、おしゃれして出かけた。

 付き合って半年後、彼女は妊娠した。25歳のサキさんと21歳の彼。二人は夜の公園のベンチに座って話した。
 「私さ、産みたくないんだ」
 サキさんから切り出した。産みたくない、というよりも、子どもを持ちたくない理由があった。
 実は、サキさんの母親は心の病で入退院を繰り返していた。子どもの頃から、自分の母親が、よそのお母さんとどこか違うことは気づいていた。突然怒り出したかと思うと、父親の帰りが遅いと会社に泣き叫びながら電話をしたりした。泣いたり、無言になったり、かと思うと突然ニコニコと機嫌よくなる。いつも情緒不安定だった。彼女のピアノのレッスンの帰りが少しでも遅くなると、ピアノ教師に電話をして文句を言った。学校の担任とはいつもなにかでもめていた。
 高校を卒業したころ、母親の病状はひどくなり最初の入院をした。病名はハッキリついたことはない。躁鬱病、人格障害……。父親と親戚の人間が話すのを盗み聞きしたに過ぎない。父親から母親のことをきちんと説明されたことは一度もなかった。
「心の病気は遺伝するって、私は間違って、そう思い込んでいました。だから、私は子どもを産むのが怖かった」
 公園のベンチで、彼にそのことを話した。
(次週に続く)
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