FILE.18 誰にも言えなかったこと〜この子は誰の子?
【完結編】人生の決定権 07.09.11
 悪夢はみたものの、以前のようにうつ気味になることはなくなっていた。妊娠しているので安定剤など飲めないという不安もあった。だが、彼女は自分でも不思議なくらい日々落ち着いていた。長男は日に日に大きくなるおなかをさわりながら「お兄ちゃんだよ〜」と楽しみにしているようだったが、おねしょをしたり、時に「ひとりっ子のほうがいい!」と感情的になるなど、少しばかり赤ちゃん返りをしていた。悩んだり、動揺してもおかしくない状況だったが、ヒデミさんの心は安定していた。
 「思ったより息子にやさしく接することができました。ママは、あなたも赤ちゃんもみんなみんな大好きだよって、声をかけてましたね。なんでかわからないんだけど、どんなことがあっても、一緒に生きていこうねっていうような強い気持ちが湧いてきたんですね。ある意味、開き直ってたのかなあ」

 そして、つぶやいた。
「なんていうか、自分で決めたことだもん、みたいな」
 追い込まれていたとはいえ、初めて犯した浮気という火遊び。そして、妊娠。でも、すべて自分の意思で決めたことだった。恐らく彼女は仕事を辞めた後、自分の意思で動くことがあまりなかった。夫の転勤についていくことも、専業主婦でいることも、彼女が意思決定しているようで、実はそうではなかったのだろう。人生の決定権を夫に握られた生活だった。

「妊娠中にね。テレビで鮭の産卵を観たんです。ほら、鮭って逆流をものともせず泳いで行くじゃないですか。見てて、わんわん泣いちゃった」
 自分と重ねていた。ヒレが裂け、傷ついたぼろぼろの鮭がいとおしかった。真っ赤に染まったからだがまぶしかった。
 小さな命の決定権は彼女にあった。自分で決めたことであれば、人も逆流を泳ぐものなのかもしれない。
 「この子誰の子なんだろうって思うたびに、私、普通じゃないよ。普通はおろすよ、こんなことしないよって自分を責めたりしました。でも、一方で、どんなことがあっても、自分でしっかり育てようっていうエネルギーが沸いてきたんです」

 最悪のケースを想定し心の準備をしながらも、胸の奥で祈った。今思えば、笑ってしまうような願いだった。
「男の子が生まれることを祈ってました。もう、毎晩、寝る前に神様に手を合わせて祈りましたよ。男の子は母親に似るじゃないですか。長男も私にそっくりでしたから。え? そうじゃない子もいるの? そうなんですか。でも、そのときはもう、そう信じてたんですよ。ただ、子どもは女の子だったんですけどね」
 妊娠9か月にさしかかかったころ、医者に女の子だといわれた。彼女は落ち込み、家事一切ができなくなるほどだった。一方、女の子だと知らされた夫はなぜか大喜びし、彼女のからだを気遣うようになった。会社を休んで付き添ってくれたという。
 「夫は男兄弟だったから、嬉しかったみたい。で、ふと思ったんです。この子は夫の子どもなんじゃないかって。もちろん、どちらの子かはわからない。でも、彼に似ていたら、この子と一緒にどこかに逃げて暮らすしかない。でも、それも自分がしたことだし運命なんだって」

 そして、娘が生まれた。A型だった。
 しかも、夫に、似ていた。
 「毎日、毎日、娘の顔を観察してましたね。少しでも彼に似ているところはないかって。でも、まったくないんです。親戚もまわりの人たちもみんな、『パパ似だねえ』って言います。夫も今ではすごくいいパパです。今? ええ、幸せですよ。いろんなこと、夫と話し合えるようになったし。ただ、今でも妊娠して出産するまでのことを思うとドキドキします。こんなこともあるんだなあって。でも、だんだん時間がたつと他人事のような気持ちです」
 「パパ似」といわれるたびに、ヒデミさんは自分の幸運をかみ締める。幼稚園への復帰はあきらめ、今はパートで事務勤めをしている。同じ職場の後輩の子育ての相談にのったりして、自分でもけっこう頼りにされていると感じている。
 そして、あのテレビで観たぼろぼろに傷ついた鮭の姿を思い出す。
 彼とはあの日以来、会っていない。
(終わり)
※メールは、件名を「ルネッサンス」として、コチラへ。
※過去のファイルについてのものでも結構です。
※スパムメールとの区別のために、件名明記で。