ホテルのカーテンの隙間から細く差し込む朝の光を、ヒデミさんはぼんやりながめていた。ベージュ色の床には脱ぎ捨てられたワンピース。その上に丸められたティッシュが散らばっていた。ヒデミさんが寝返りをうつと、目覚めた彼が、「ずっとこうしてたい」とつぶやき、背中から抱きしめてきた。返事はしなかった。
「なんか本当に呆然って感じで……。なにが起きたんだろうって他人ごとのようで。ああ、やっちゃった、って思いました」
先に身支度を整え、シャワーを浴びた彼を待っていたら、彼に声をかけられた。
「時間差で出よう。僕は誰に見られようがいいけれど、君は困るだろう。先に行っていいから」
ああ、時間差ね。なるほど。妙に納得しながらドアに近づいたら、後ろから抱きしめられた。
「今度、いつ会える?心配しなくてもいいよ。君の家庭を壊したりはしないから」
彼はそうつぶやいた。
「彼と同じ気持ちでした。私もかわいい子どもを捨ててまで彼と、なんて思ってはいなかった。今思えば、もうすべて勢いですよ」
ヒデミさんは無言で部屋を出た。小走りでエレベーターまで行きボタンを押した。
「彼は、なんていうか、雰囲気に浸っているって感じだったんだけど、私はもうなんかすごい動揺していて。とにかく、自分は昨夜どうなったんだろうっていうことを、一生懸命思い出そうとしていました」
子どもを迎えに行き、自宅に戻って安定剤を飲んだ。すぐに掃除や洗濯にとりかかった。夜には夫が戻ってくる。ワンピースはクリーニングに出さなくては。使ったアクセサリーは元に戻そう。ハイヒールも箱にしまわなくては。
子どもに口止めすることも忘れない。「パパに怒られちゃうからね。お友だちのおうちにお泊りしたことは黙ってようね」
預かってもらった友人には? いや、彼女は大丈夫。夫と話をすることはない。逆に口止めなんか頼んだら、変に疑われておかしな噂を流されるかもしれない。おかしな噂っていっても、本当のことだけど――。
証拠隠滅に奔走しつつあわただしく一日を過ごしていたら、徐々に記憶が戻ってきた。
「愕然としました。避妊らしいこと、してなかったんです。アブない日だったのに。なんか勢いで……。わからないけれど、絶対妊娠したような気がしました。どうしよう、どうしようってすっごい焦りました。でも、できていたら産もうって思いました。自分の都合で命を消すことなんてできませんから」
出張から戻った夫に、無意識のうちにやさしくしてしまう自分がいた。夫の好きなワインも準備した。風呂上がりには着替えも用意してあげた。夫への後ろめたさがそうさせていた。その夜、夫は彼女のやさしさに素直に反応し、何年ぶりかで夫婦のセックスレスはあっさり解消されてしまった。
確信はその通りになった。ヒデミさんは7年ぶりに妊娠してしまった。
ただし、細かく計算すると、あの日の夜ではなく数日後の夫とのセックスで妊娠したようだった。でも、正確にはわからない。どの日に妊娠したかを医者に尋ねたが、「だいたいこの週だと思いますけど? どうして?」と、不思議な顔をされた。それ以上、聞けなかった。
「妊娠した時はもう、なんか半ば開き直ってましたね。それに、万が一、万が一ですよ。彼の子どもができたとしても、血液型で疑われることはないと思いました。DNA鑑定なんか、まずしないし」
何度か重ねたランチデートで、彼女は彼の血液型がA型だということを知っていた。彼女もA、夫もA型だ。
唯一、彼女のプランが崩れるとしたら、子どもが彼に似てしまった場合だ。不安にかられたヒデミさんは、妊娠中彼に似た子どもが生まれた夢を何度もみた。(完結編に続く)
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