デジカメを握り締めた右手の甲で、ぐいっと涙をぬぐった。泣いている場合ではない。夫に向かって、ココ一番の啖呵を切る時がきた。
「ちょっと!あんたたち、起きなさいよっ」
深呼吸し、下腹に力を入れて、思い切りドスのきいた声で叫んだ。
「クスリでラリっている状態の大人ふたりは、寝ぼけマナコでした。子どもは疲れたみたいで熟睡してて……。それはそれで救いでしたね。子どもには何も罪はありませんから」
夫は「おまえ、何やってんだ」と目をむいて叫んだ。女はただただ呆然としている。上体だけ起こし布団からむき出しの乳房が、アユさんの目に入る。自分よりずっと貧弱な白い二つの乳房に、心の中で(ちっちぇー)とつぶやいてみる。この修羅場でそんなことを思っている自分をバカバカしいと思いつつ、なんとなく勇気が出てきた。
「あんたねえ、クスリなんてやってる場合なの?(経営している)店はどんどん閉めちゃってるじゃない。れなのにこんなにお金使って。ばっかじゃないの? 離婚してもらうから。お金もきっちり払ってもらうからね。こっちは(裁判に)勝つ材料は山ほどあるから」
一気にまくし立ててから、デジカメを夫に向かって突き出した。夫はろれつの回らない声で「さいばん、に、しないで」と懇願したが、無視して家を出て行った。
その日の夜。夫の携帯に知人の家から電話をした。あらかじめ電話の録音テープをまわした。クスリをやっていることをののしったら、最初は「クスリを卸している店で飲んだから、からだに匂いが移った」などと言い訳をした。だが、追求していくと、すぐに白状した。クスリを買った相手、金額、量もペラペラとしゃべった。だが、慰謝料や養育費の支払いの話になると、黙り込んだ。「カネがないから払えない」と繰り返した。
アユさんはいったん電話を切った。
翌日の昼。夫に再度話をするために家へ戻った。バッグには前日の録音テープがしのばせてあった。
呆れた。
女と子どもが、まだ家にいた。
そして、またもや「川の字」だ。そうだ。忘れていた。息子の大事な枕を取り返さなくてはいけない。ベッドに上がり、子どもの頭から、枕を抜いた。夫のからだも、女のからだもお構いナシに踏みつけて、降りた。
夫は変わらず目をとろんとさせて、朦朧としていた。
からだがブルブルと震えているのが、自分でもハッキリわかった。ワナワナと震えた足元から怒りが込み上げてきた。
夫をベッドから引きずり下ろした。女も引きずり下ろした。アユさんの爪が女の足首に食い込み、女は「痛いっ!」と悲鳴を上げた。夫をこぶしで殴りつけた。ゴミ箱、空き缶と、部屋のものを次から次に投げつけた。
地の底をはうようにして我慢してきた3年余りのストレスが、爆発した瞬間だった。
夫とつかみ合っている最中、右腕に激痛が走った。折れたような気がしたが、構わない。
はあはあと、激しい息遣いで抵抗する夫を押しのけて、アユさんは駐車場に走った。ただならぬ彼女の様子に何かを感じたようで、夫は追ってきた。
夫が防犯用に玄関にたてかけていた木刀を握り締めた。夫が「命と同じくらい大切」と口癖のように言う漆黒のジャガーのフロントガラスめがけて振り下ろした。バリッ。鈍い音をたてて、フロントガラスが裂けた。
「うがーっ!や、やめてくれーっ!」
夫のわめき声が、妙に心地いい。ボンネット、ドアと、次々にボコボコにしていった。
お次は真紅のフェラーリだ。夫が「命より大切」という愛車めがけ、木刀を頭上へ高々と振り上げた。
その瞬間、悲鳴に近い声が聞こえた。
「ま、毎日50万ずつっ(養育費)」
「は、払うっ」
「こ、公証役場も」
「い、慰謝料もっ」
「フェラーリの破壊は勘弁してあげました。でも、ドアに新しいアパートのカギをガーッとやってやりました」
奪い返した息子の枕を右腕で抱えたら、再び激痛が走った。存分に暴れまわった彼女の右腕は、折れていた。(続く) |