FILE.14 腕枕 ――遠距離恋愛の結末――
07.06.12
 サワコさんは以前、「少しばかり太め」だった。
 「2年ほど付き合っていた男性がいたんですけど、彼はすっごい細くて。『別におれはデブ専じゃないんだけどなあ』なんていわれると、冗談だとわかっていてもやっぱ傷つきましたよ」
 彼との結婚を望んでいたが、彼は「まだ(結婚は)考えられない。転職も考えているし、守らなきゃいけないものはまだ持ちたくない」と言うのだった。「まだ若かったし、彼との結婚のことばかり考えていた時期だったので、まるで私は守りたくない存在なのかなって悲しくなったりしました」
 もやもやした思いを晴らすかのように営業の仕事に打ち込んでいた彼女に、彼より先に転機が訪れた。女性の地方への異動は少ない会社だったのに、新たにつくった支社に転勤になったのだ。新幹線で2時間。最初は2週間に一度は彼のもとを訪れていたが、新しい支社での仕事は忙しく少しずつ疎遠になっていった。気がつくと、彼と半年間会わないまま時間が過ぎていた。現在のように携帯メールがなかった時代。遠距離恋愛を支えていた電話でも話す時間が減っていった。

 ところが、ハードな生活がたたって風邪をひき、ある日サワコさんは会社を休んだ。夜になるのを待って彼に電話をしたが留守。仕方ないので、共通の友人に次々電話をかけた。みんな忙しいようでなかなか出ない。何人目かにでようやくつながった女友達に「久しぶり〜」と明るい声で呼びかけたら、ひどく暗い声で「カレシ、A子の部屋に泊まったみたいよ」という。A子さんはサワコさんの高校時代からの親友だ。
 「でも、A子はすごく義理堅い子だったし、そんなことをする子じゃないって思いました。彼がそんなことをする人じゃない、っていう自信は正直ありませんでした。それより親友のほうを信じていたんです」
 真偽を確かめようと、A子さんへ電話をした。咳き込む彼女にA子さんは「どうしたの?大丈夫?」と心配してくれた。そして、彼が酔って自分の部屋に泊まった事実を正直に話してくれた。「でも、本当に何もなかったから心配しないで。ただ、私はあの人は信用できない。それだけは言っておくね」と言う。

 「ショックでした。でも、半年間もほぼ音信不通の状態でしたから。彼が寂しくなってそんな行動に出たのかもって思いました。でも、何もなかったことは信用できました。私はA子の言葉を信じられたから。それに、まだ私への愛情があって何もなかったんだったら許そう。そう思って彼に会うことにしました」
 無理をして休みを取り、彼に会った。他にも彼に早く会いたい理由があった。彼女はハードな生活のせいか、半年間で7キロほど痩せていた。そして、待ち合わせた喫茶店で、彼は目を見張っていた。「きれいになった」を連発した。もともと美人だったが、痩せたことでさらに華やかさが増していた。自分ではそんなに変わったとは思っていなかったが、悪い気はしなかった。A子とのことはもうなかったことにしようと、自分の心のなかにしまった。
 それから数ヶ月たって、彼からプロポーズされた。OKしたものの、サワコさんの気持ちは揺らいだ。心のなかからA子とのことが消えていなかった。それに、仕事が面白くなり始めていた。だが、彼は「1年くらい待ってそれでも本社に帰してくれなかったらやめちゃいえば」というのだ。
「自分はキャリア、キャリアっていうくせに、私の仕事のことは軽く見ているんです。すごく好きだったのに、ちょっと興ざめでした。でも、好きだったから何も言えなくて……」

 彼の両親に会うことになった。待ち合わせした東京駅のホーム。現れた彼女に、彼は「やっぱ痩せてきれいになったよなあ」と言った。「親が驚いちゃうなあ」と頭をかいた。
 「その瞬間、すーっと熱が下がる感じがしました。風邪で高かった熱が下がっていくような感じ。なんだかわからないけど、すっごい冷静になっちゃって。あれ?この人、私のこと本当に好きなのかなって次々ギモンがわいてきました」
 乗り込んだ電車の中で、彼は饒舌だった。家族のことなどしゃべりまくっていた。
 一方、「冷静になった」彼女は、上の空だった。

 「あとひと駅だよ」と彼が言った。
 彼女は突然、話し始めた。
 「春ごろさ、あなた、A子の部屋に行ったよね」「ああ。行ったけど。酔っちゃってさ。でも、何もなかったよ。おれ、すぐ寝ちゃったもん。な、なんで今頃そんな話すんのさ」
 「ふーん。私はA子にそういうふうには聞いてないよ。腕枕してあげるから、って誘ったみたいね」
 彼は絶句した。流れた沈黙を、車内の到着のアナウンスがかき消した。

 プラットホームに降りた彼女は、自分が持っていた彼の両親へのおみやげを、ストンと彼の足元に置いた。「ギモン」の結論が出ていた。
「さよなら。結婚、やっぱ、やめるわ」
そして、ちょうどやってきた上り電車に飛び乗った。

 その後、彼女のしばらくの日課は、帰宅してから彼からの留守電を抹消することだった。
 「腕枕してあげる、っていうのは、彼の口癖でした。ふっと思い出したら聞いてみたくなったの。A子に聞いたなんてウソですけどね」
 サワコさんはいたずらっぽく笑った。
(終わり)
※メールは、件名を「ルネッサンス」として、コチラへ。
※過去のファイルについてのものでも結構です。
※スパムメールとの区別のために、件名明記で。