FILE.11 逃げる男
【完結編】ナルシスト 07.05.01
 エリさんの母親はこう言った。
 「あなたには申し訳ないんだけれど、(エリさんの夫は)どこか信用できないんだよねえ。まあ、あなたが選んだ人なのだからいいんだけど」。それを聞いたエリさんは母親と夫は少しばかり相性が悪いだけだと思った。「そのうち彼の良さがわかるわよ」と軽く受け流したのだった。
 「今思えば、母親のカンってすごいなって思いますね。私はもう彼と恋愛しちゃってるから客観的にみられなかった。私って思い込みが激しいし、突っ走っちゃうタイプなんです。母親が言ったからって結婚を考え直すような余裕はなかったですね」。

 不満を抱きながらの生活は、3日しかもたなかった。
 ある朝、子どものひとりが授乳のあとにむせて吐いてしまった。世話をしていると、もう一人が泣き始めたので、夫に「ちょっと起きて手伝って!」と声をかけた。ところが、夫は「何だよ!こっちだって眠いんだよ!」と怒り出したのだ。
 いつもなら怒鳴り返すところだが、エリさんは自分のなかでなにかがスーッと冷めていくのを感じた。「ああ、もうダメだな。こんなことで、いちいちけんかになるんだったらもう離婚したほうがいいな、って思いました」。一人をおぶい紐でおんぶし、口元を汚して泣くもう一人を着替えさせる手が少しだけ震えた。離婚を決意した。
「実家に帰るわ」と告げると、夫は「あ、そう」と答えた。実家に戻って数週間してから、夫へ電話で離婚を告げた。「正直、おれは逃げてると思う。離婚でいいよ」。夫は話し合いの最後にそう言った。

 「おれは逃げているといわれて、ああ、そうだ、この人はいろんなことからただ逃げていたんだなって思いました。子どもと一緒の生活から逃げて、仕事を続けたいという私から逃げて、同居をせまる親から逃げて。すべてが自分の嫌なことばかりですからね。何も考えず、何もせずに、ただ、ただ逃げていたんです。自分の仕事や将来のことなんかにはあんなに理想を語っていたのに、自分の家族をつくることには理想や展望がないんですよ。何度もきちんと話し合おうって私から持ちかけたけれど、いつも面倒くさいと逃げてましたから。家庭をもつこと自体に不向きな人だったのかも知れません」。
 エリさんはそう話してから、しばらく押し黙った。

 夫は、話し合いのなかで、こんなことも打ち明けたそうだ。「君がおれの親の前でキレて、おれのことをののしったことは、すごくショックだった」と。
 夫は自慢屋だった。
 小さい時から勉強ができたこと、友だちが多いこと、仕事に理想をもっていること、転職を繰り返した後に大企業に入ったこと。「この際つまらないことも挙げてしまえば、おれは女が切れたことがない、というのも自慢していましたねえ」。
 エリさんは大きなため息とともに、また話し始めた。
「背が高くて、俗に言うイケメンでした。周囲からちやほやされてきたのだと思います。親からもすごいかわいがられていたと思うし。男なのに出かけるまでにすごく時間がかかる人で、鏡の前からなかなか離れないようなところがありましたから。要するにナルシストだった。自分が一番好きなんですね」。
 だから、親の前で妻からののしられたことが、ひどくショックだったのだろう。泣いている子どもや、髪を振り乱して育児に取り組む妻に手を差し伸べることよりも、夫には「鏡の前に立つ時間」のほうが重要だったのだ。

 かくして、二人は離婚した。「離婚してよかったって思いますね。そのことは、後で何度も再確認させられました」と彼女はいう。
 なぜなら、イケメン夫は離婚後次々と馬脚を現した。
 慰謝料は要求しない代わりに子どもの養育費は相場の金額を提示したが、彼は半額にしろと迫ってきた。聞けば、借金があるという。「まったく知りませんでした。自分の親には生活費だと10万円ポンと渡しておきながら、自分は株で損をしていろんなところにお金を借りまくっていたんです。借金の返済で苦しいから、養育費は払えないっていうんですよ。もう、ふざけるなって思いましたね」。
 さらに驚いたことに、夫は離婚届を出して数か月後に再婚した。相手は取引先で知り合った女性だった。
「おれは女が切れたことがないんだよなあ、って自慢げにいってた横顔を思い出しました。出産してほとんどセックスレスでしたからね。夫は彼女とは離婚してからの関係だって言うけれど、そんなの信じられませんよね」。
 エリさんの母親の「どこか信用できない」のカンは当たっていた。
 彼女は言う。
 「二人で暮らしていたとき、家事は一切私がしていたんです。だから、彼は子育てもいざとなったら私がすると思ったのかもしれません。子どもをもつというか、二人で家庭をもつ準備ができていなかったのかなって思います。きちんと向き合えていない夫婦でした。すべておママゴトだったんだと思います」。
 今の彼女には、子ども二人を育てるというおママゴトでは済まされない現実が待っている。保育園を探し、再就職した。子どもたちはすくすく成長している。離婚から学んだことは「逃げていては何も生まれない」ということだ。
(終わり)
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