FILE.11 逃げる男
【後編】4人で暮らす 07.04.24
 日曜日の、日差しが差し込むうららかな昼下がり。
 居間に、舅、姑、夫がパンフレットを見ながら話を続けていた。子どものひとりは姑に抱かれていた。ひとりは自分が座ったままあやしていた。だが、子どもはだんだんぐずり始めた。姑が「エリさん、立ってあやさなきゃ。子どもは立たないと泣き止んでくれないわよー」とにこやかに言った。夫は子どもがぐずっていることさえわからないようだ。(わかっていても、わかりたくないから、わかっていない態度なんだ)と思った。  その瞬間、彼女は子どもを抱いたまますっくと立ち上がった。

   熱くてしょっぱいものが口の中に流れ込んできた。口を開く前から、涙があふれていた。エリさんは、姑たちの目の前で夫への不満をまくしたてた。
 「何を言ったか? うーん。それがはっきり覚えていないんですよ。本当にもうカーッとなって、興奮していたから。思い出せないんです。ただ、とにかく、夫への不満をぶちまけていたと思います。私、普段から早口なんですけど、いっそう拍車がかかって。機関銃みたいに、ってよくいうけれど」。
 一緒に子育てをするといいながら、子どもをあやすだけで世話をしない「ただのかっこつけ」。昇級試験を言い訳にして育児をしない「父親として最低」。「弱すぎる」「いい加減にして」。そんな言葉が飛び出したような気がする。ただ、ひとつ、鮮明に憶えているのは最後の捨てゼリフが「離婚してもかまわない」だったこと。
 エリさんの大声にびっくりして泣き叫ぶ子どもを抱えたまま、彼女は2階に駆け上がった。部屋にうずくまって泣きながら、この部屋に台所がつけられ、一日中家事と育児に追われる自分の姿を想像したらよけい涙が出てきた。

 しばらくたったら姑が上がってきて、やさしく話しかけてきた。「不満があったなら、なんで言ってくれなかったの? 子どものためにも離婚だけはやめてほしいの。うちの息子ができないぶんは、私たちがあなたたちを支えていくから」。
 涙も乾き、呆然としたまま姑の言葉を聴いていた。
(不満はずっと言ってましたよ。でも、わかろうともしてくれなかったじゃないですか)
(うちの息子ができないぶんは私たちが支えていく? そういう問題じゃないんだよ)
 胸の中に姑への反論の言葉が渦巻いた。だが、さんざん夫への不満をぶちまけたあとで、渦を巻いた言葉を吐き出す気になれなかった。あとで携帯に舅から、「男は仕事が一番なんだよ」とメールが届いた。(何言ってんだか)、もっともらしい「男の主張」が並んでいた。すぐに削除した。「この人たちに、何を言ってもわかってもらえない」という強い失望感にさいなまれた。
「夫のほうはいきなり離婚を切り出されて、多少なりとも慌てているようでした。ひたすら謝ってきたので、私も『あなたが変わってくれるなら、私だって離婚は避けたい』と話しました。とりあえず自分たちだけの力で生活していこうということになって、マンションに戻ったんです」。

 初めての親子水いらずの生活。エリさんはエレベーターのないマンションの2階ではベビーカーをおろしづらいので引越しを提案したが、夫は渋った。
 (本当に一緒にやっていく気があるの?)
 まず、そこから不信感が芽生えたものの、子どものためにと我慢した。日中の生活はなんとか夫ナシでも持ちこたえたが、つらいのは夜泣きだった。だが、夫は「それだけは協力できない」と、布団を引きずって別室へ逃げるように消えた。エリさんが「私だってもうすぐ職場復帰するんだよ。ふたりで交替して起きるとかしないとやっていけないよ」と怒ると、「男と女の仕事は違うだろっ!」と怒鳴った。
 出産前、「君の仕事を応援するよ」「一緒に子育てしよう」と語ってくれたやさしい夫は、もうそこにはいなかった。
「同じ人間が吐く言葉だとは信じられませんでしたね」。
 さらに、お互い子どもに一人ずつついて離乳食を食べさせている時、夫がこんな言葉を漏らした。「めんどくせーなー。こんなこと、おれんちで暮らせばうちのおふくろにやってもらえばいいじゃん」。
 (自分の実家で自分の親の前だとあんなにいい父親のふりをするのに……)
 ふと、自分の母親が結婚前に漏らした言葉を思い出した。
(次週『完結編』に続く)
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