FILE.11 逃げる男
【前編】不妊治療 07.04.10
 この連載を続けて2年3か月。「よくまあ、次々と話してくれる人が見つかりますねえ」といわれる。見つかるのではない。筆者としては、苦労して見つけているのだ、と言いたい。ところが、ようやくアポイントをとっても、お会いする段階になってキャンセルされる方も少なくない。これまでに二人、(言い方は悪いが)逃げられてしまったことがある。二人とも男性だった。女性は「話す」と決めたら腹をくくるようだが、男性は直前になると敵前逃亡してしまう(なにも対決するわけではないのだが)。自分の過去を他人に話すことはある意味、勇気のいることだ。ひるんでしまうのだろうか。
 とはいえ、ごくたまにだが、読者の方や知人を通して「お話したい」という方が現れる。今回インタビューさせていただいた方もそうだった。「著書もマフィンネットもブログも拝見しました。ぜひ会って自分のことを話したい」。そういって連絡をくださった。
 映画関係の仕事をするエリさん。38歳。友人とバーなどで飲んでいると、男性からよく声をかけられるという。子どもがいるとは思えない若さと美貌の持ち主だ。「お会いするのをすごく楽しみにしていました。お話して自分のことを整理したいっていう気持ちになったんです」とにこやかに微笑んだ。

 エリさんは29歳の時、同じ会社の先輩だった二つ年上の男性と結婚した。
「同じ部署で彼にいろいろ教えてもらっているうちに付き合い始めました。仕事以外でも、すごく物知りで。政治とか経済とか私がわからないことにとっても詳しいんです。二人ともいずれ転職しようと話していたのですが、彼は仕事を進めていくうえでは強い意思を持たなきゃダメだ、とか、高い理念をもっていればぶれないとか、精神的なことも話してくれました。そのどれもが納得できることばかりで、すごく尊敬できる人だって思いました」。
 そのうえ、彼は「女性が働き続けることはいいことだ。君のことも応援するよ」と言ってくれた。結婚しても子育てをしながらキャリアを積みたい、と、考えていたエリさんには理想の相手だった。
 「それに……。実はとってもハンサムなんです。私はけっこう面食いではなかったんですけど」と言って恥ずかしそうに首をかしげた。周囲からは「美男美女」「お似合いのカップル」とうらやましがられた。

 結婚生活は穏やかに過ぎていった。その後ともに転職しキャリアアップした。夫は大企業に中途採用され、エリさんも希望の会社に移った。お酒が好きな夫とは仕事帰りによく飲み歩いた。「次、行こう」。何軒もはしごしながら、二人で何時間語り合っても飽きることはなかった。土曜日は家でゆっくり過ごし、日曜日は二人で趣味のゴルフに出かけた。
 ひとつだけ誤算があったとすれば、すぐに子どもが生まれなかったことだ。31歳を過ぎたころから子作りに専念したが、なかなか妊娠しない。焦ったエリさんは不妊治療を受けた。最初は体内受精でと毎月数回病院に通った。だが、3年たっても妊娠しない。
「子どもってポンって生まれるものだと思っていたんです。でも、そうじゃないんですよね。私はけっこう思い込みが激しいんで、もうだめかもって、よく泣いたりしました。でも、夫が支えてくれました。僕は子どものことはどっちでもいいよ、思いつめることないよって励ましてくれました」。
 35歳を目前にし、体外受精に踏み切った。体外受精の治療費は一回30万円。保険がきかないので高額だったが、夫は「共働きだから大丈夫だよ。できるところまでやってみよう」と言ってくれた。

 仕事をしながらの治療は、エリさんにとってハードなものだった。体外受精の前には何日間も続けて通院し、排卵誘発剤の注射を打ち続けた。夫にも負担なのは明らかだった。体外受精の日は、夫は病院で精子を出さなくてはならない。「説明したら、えーっ!マジかよ、って言ってましたね。夫婦して、こういうことを何度か試すのかと思うと暗くなりました。私のほうはそんなにたびたび半休もとれないし。なので、会社の上司には体外受精の治療を始めたと報告しました」。
 そんな矢先、妊娠がわかった。体外受精から2週間後に病院へ行くと、担当医がモニターをみながら声を上げた。「あっ!二つもあるよ」。彼女のおなかのなかに受精卵が二つあった。双子だった。「妊娠したよ!双子だよ!」。すぐさま夫にメールした。返信メールには、何十個もの絵文字が並んだ。
 「普段、絵文字なんか打つ人じゃないんですよ。よっぽど嬉しかったんでしょうね。義母からも『あの子があんなに喜んだ顔は見たことがない』って言われましたから」。
 そして、不妊を自分の体質のせいだと感じていたエリさんは、夫以上に嬉しかったはずだ。
「妊娠がわかったら、なんだか動いちゃいけないんじゃないかって思って、その日特に体調が悪いわけでもないのに、うちに帰って寝てました。お風呂に入っても、子どものところにお湯が入らないかな、出てきちゃったらどうしようなんて、おそるおそる湯船につかったりしてましたね」。

 その後、双子は無事帝王切開で生まれた。細いからだの妊婦なのに、子どもはそれぞれ2600グラムと2700グラムだった。夫は手術室を出た妻の手を握り締め、涙をぽろぽろこぼしながらこう言った。
 「エリ。君にはいいところがいっぱいあるけれど、今日は本当に君はすごいと思ったよ。そんなに小さいからだで双子をそれなりの体重で元気に産んでくれて……。えらいよ!」。
 彼女は幸せだった。
 「ああ、この人と一緒に子育てできる私は幸せだって思いました」。
 だが、そう思えたのはこの日が最後になった。
(次週に続く)
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