FILE.1 最後の電話
【後編】生まれて初めての抵抗 06.09.19
 年金暮らしになった父親は、毎日朝から酒を浴びるような生活をしていた。定年を迎え、もともと折り合いの悪かったリョウコさんの母親との暮らしがうまくゆくわけがなかった。
 厳しい言葉を投げつけられ、居場所がなく酒場をうろついた。アルコール中毒と診断されたが、頑として治療を受けなかった。
 それに加えて、溺愛していた息子の家庭不和。
 「もとはといえば、弟が作った借金を母が隠れて返したりしていたのも不和の原因なんです。それが彼女(母)にはわからないんですよね」
 アル中の夫に、家出をしては実家に戻ってくる借金まみれの息子。小さな田舎で世間体を気にする母親に、リョウコさんは頻繁に電話をかけて励ました。出てくるのは、父親や息子への愚痴ばかり。ゆうに1時間は切ってもらえない。

 そして、最後は必ず、娘に文句を言うのだった。
 「あんたはいいわね。一人でうちを出て自由に暮らせて」
 リョウコさんは、電話を切るとぐったりした。エネルギーのすべて、魂までも、受話器の向こうの母親から吸い取られるような感覚さえ覚えた。

 仕事は会社勤めから在宅になったが、それなりに楽しくやっている。生きがいも感じている。夫には、自分の生い立ちや母親との葛藤を、折にふれて打ち明けてきた。
 特になにか言葉があるわけでもなく、淡々と聞いてくれるだけだが、受け止めてもらっているという思いはある。理解してもらえる相手にめぐり合ったと感じている。
 けれど、自分を生んでくれた母親とは、わかり合えない。そして、いくら夫がそばにいてくれていても、母親と向き合わなくてはならないのは自分だけなのだ。2週間おきくらいに母親へ電話をかけていたが、そろそろかけなくてはいけないと思うと気が滅入る。仕事をしていても、家事をしていても、電話機が目に入るだけで気分が悪くなった。
 「だったら、かけなければいいんですよね。でも、それができない。実家から何百キロと離れているのに、私は30歳を過ぎても母に縛られているんだと思いましたね」

 子どもはまだ小さいし、生活はあわただしい。気持ちがふさぐと母親に電話するエネルギーが沸いてこなかったが、無理をしてダイヤルを押した。いつものように母親の愚痴を聞いていたが、だんだん苛立ってきた。老いた母親の方言混じりの言葉が、片っ端から耳の間からどこかへ抜けてゆく。

 一方で、心の中に湧き上がる怒り。
 なぜ、こんなに辛い思いをしながら電話しなくちゃいけないの?
 なぜ、私ばっかり責められなきゃいけないの?
 あなたが、悪いんでしょう。あなたが家族をダメにしてるんでしょう。
 お父さんも、弟も、みんなあなたのせいで不幸になったんじゃないの!

 「ちょっと、ねえ、リョウコ!聞いてるの?」
 小さい頃から聴きなれた、心臓に突き刺さるような責め口調の、母親の声。ふいに、リョウコさんの中で、何かが崩れた。
 彼女は受話器を握り締め、母親に向かってまくし立てた。いっぱいになった水がダムをこなごなにして溢れ出すような、そんな勢いで。
 「でも、何もかも、お母さんのせいでしょう。お父さんが酒びたりになったのも、あの子(弟)の家庭があんなふうなのも、お母さんのせいじゃないの?!」

 生まれて初めての、母への抵抗。もっと、いっぱい、しゃべるはずだった。今まで言えなかったこと、なぜ自分に対してあんな仕打ちをしたのか、聞いてみたかった。けれど、彼女にはこれで精一杯だった。
 受話器を置いてから、水をコップについで飲み干した。ちょうど学校から戻った子どもに話しかけたら、長々と怒鳴ったわけでもないのに、声が枯れていた。

 2週間たった。
 でも、リョウコさんは母親に電話をかけなかった。母親からも連絡はなかった。
 「もう、いいや。もうこれで縁が切れてしまっても仕方がないって。そう思いました」
 ひと月たったある日、弟から電話があった。受話器をもつ手が、震えた。
(完結編へ続く)