FILE.10 産みたくない私
【後編】母への殺意 07.03.27
 「子どもは産まないと決めました。私も知らず知らずのうちに、うちの母みたいな親になるんじゃないかって不安なんです。恐いんです。親に似てしまった私が産んで育てても、今の私のように子どもは絶対不幸になるって思ったんです」。
 夫には、そのような胸の内は明かしていない。「子どもは好きじゃないし、欲しいと思わない。自分の好きな仕事をもっとやりたいから」。そう説明して妊娠することを拒んできた。子どもが欲しい夫は強くは言ってこないが、サトミさんの言い分に納得しているわけではないという。
 「子どもつくろうよって、たびたび誘ってきますね。最初はむこうもそのうち産んでくれるだろうって思っていたんじゃないかな。態度に余裕がありましたから。でも、最近はちょっと深刻になってきちゃって……。私たちもしかしたら、離婚することになるかもしれません」。

 子どもを産む産まないで、ちょっとした言い争いになることが多くなった。
「子どものこと、前向きに考えてよ」と夫が言い始める。
「だから、産むのは嫌なんだってば。私なんかが育てたって、いいことないもん。自信がないんだよ」。
「そんなの、育ててみないとわかんないじゃん。おれも手伝うからさ」。
「手伝うって言っても、産むのは私だし。結局はフリーで仕事してる私が、子育てしなくちゃならなくなるに決まってるもん」。
「……。でも、おれは子どもが欲しいんだよ」。
「私は欲しくないのっ。どうしても欲しかったら、私と離婚して別の人に産んでもらうしかないんじゃないの?」。
「離婚って……。おれは、おまえに産んでほしいんだよっ」。
 子どもが欲しい夫と、欲しくない妻。最終的に、それぞれが、それぞれの言い分を吐き出すだけの不毛な議論になってしまうのだった。

 サトミさんは、子どもが欲しいと願う夫の気持ちがまったくわからないわけではない。
 夫の家庭は、母親とろくに言葉も交わさず育ってきた彼女からすれば、「絵に描いたような幸せなおうち」(サトミさん)なのだ。夫は両親を誘って一緒にお花見に行ったり、旅行にも行く。親の誕生日には贈り物をし、母の日、父の日などにはきょうだいが実家に集まり、母親の手料理で食事をする。
「食事が終わっても、だれもリビングから離れないんですよ。いつまでもいつまでもおしゃべりしてるんです。私もあちらの両親のこと、大好きだし一緒にいて楽しいですから、夫が自分も子どものいる家庭を作りたい気持ちはすごくよくわかります。夫の家の親子関係はいいなあって、私も思います。でも、私にとってのリアルな親子関係は、残念だけど私のうちなんです」。
 彼女にとってのリアルな親子関係、ようするに彼女のなかにある親子関係の見本は、彼女と母親の関係しかない。その関係を否定し、嫌悪感を抱き続けている限り、サトミさんは子どもを持つことはできないのだ。

 葛藤しつつ夫婦生活を続けているなか、夫の親戚に不幸があり、サトミさんは自分の両親と夫の実家を訪ねる機会があった。最寄駅からの道中、迎えに来た夫が「うちにいらっしゃるのは初めてですね」とサトミさんの母親に話しかけた。すると、母親は小さな声で「初めてじゃないけどね。ふふふふ」と笑った。
「びっくりしました。後で問い詰めたら、うちの夫の実家も、興信所で調べていたんですよ。もう、頭に血が上りましたね」。
 怒りがこみ上げたものの、葬式の席で言い争うわけにもいかない。サトミさんは母親と話をするのも嫌になり終始黙り込んだままだった。
「もう、何もいう気にもなりませんでした。もう、このまま一生会いたくないって思いましたね。そんなことを考えながら両親を送って駅に行ったら、私、母親を殺したくなったんです」。
 ホームに向かうため、下りのエスカレーターに乗っていた。
 母親が先頭で、サトミさん、夫、父親と並んでいたときだ。
 サトミさんは母親の背中を力任せにドンッと押した。

 まっさかさまに転落する母親……。のはずが、母親はからだを斜めにしながらもエスカレーターにしっかとつかまり、踏みとどまっていた。
「自分でも無意識のうちに母親の背中を押してました。押した瞬間は、しまった!っていうより、もう死んでもいいやって思いました。でも、そうはならなかった。母親ですか?あんた、何するの!って、血相変えて怒ってましたね。私は『ちょっとつまずいちゃった』って言って、へらへらしてましたけど」。

 わが娘に殺意があったことを、母親は知らない。
 サトミさんは、自分が精神的に追い詰められていることを思い知った。
 「母親への気持ちをどう整理していいか、今は見当がつきません。整理できるまでは子どもは産めないし。それまでに離婚してしまうかもしれないし、今はまったくわかりません」。
 子どもを産める時間は、限られている。いま、彼女にわかっているのはそのことだけだ。(終わり)

★サトミさんは、まだ自分がどうしたらいいか、答えを出すことができません。でも、時はどんどん過ぎていきます。読者のみなさんの中で、サトミさんに言ってあげたいこと、ご意見などをお持ちの方は、ぜひメールをお寄せください。→メールはコチラ