FILE.7 ファザー・コンプレックス
【中編】中絶 07.01.23
 青白い顔で会社に戻ったユイさんをみて、彼は彼女の妊娠を悟ったようだった。仕事が終わってから食事に誘ってきた。いつものくせで彼と自分のビールを注文した彼女に、「飲んじゃって、大丈夫なの?」と心配そうにいう。長い沈黙が流れた。
 その間、彼女がふと気づいたことは、なじみの店のバイトの男の子はいつものように威勢よく大声を張り上げて、客を出迎えていたこと。人ごみはいつもと変わらない。
 「自分はこんなに落ち込んでいるのに、周りはなにも変わらない。みんなが幸せそうに見えましたね。なんで私だけこんな思いをしてるんだろう、こんな問題抱えちゃったんだろうって、ほとんど悲劇の主人公でした」。
 目の前には自分以上に落ち込んだ顔の彼がいる。いつもなら、禁煙のオフィスにたまりかねたように煙草をスパスパふかし始めるのに、妊娠している彼女を気遣ってか、煙草に手を付けない。
 「その顔を見ていると、ああ、彼の問題じゃない。私の問題なんだと思ったんです。もちろん、ふたりの問題なんだけど、産むのは私だし、産まない選択をするのも私なんだって」。

 「どうしようか」と彼女から切り出した。病院をあとにしてから、はじめて人としゃべるような気がする。久しぶりに自分の声を聞いたような気がした。彼は「ユイが決めていいよ。僕はどっちにしても責任取るから」といった。「僕にも責任があるわけだから」と、“責任”という言葉を繰り返した。
 「責任」という言葉を聴きながら、彼女は少し冷静になった。会社で彼女に目をかけ、育てようとしてくれている上司がいる。会社を紹介してくれた知人がいる。「あなたの人生なんだから好きにしなさい」と送り出してくれた両親がいる。
「支えてくれた人たちに応えなきゃいけない責任が、自分にもあると思いました。でも、いのちはどうするのって」。
 いのちをなきものにしてしまうのは“犯罪”。こうなったのは“必然”だから、運命に従うしかない――。実は、そうやって、自分の中で「産む選択」をする方向へと結論を導こうとしているような気がした。
 そこまでしても、「産むんだ」という決定的な理由が出てこない。「最後に、わたし、産みたいのかなあって単純に考えたんです。でも、答えは、「ノー」でした。子どもは好きだしいつか産みたいっていうのはあった。でも、今は産みたくない、それが結論でした」。

 数日後、彼に「ごめんね。今は産めないわ。本当にごめん。いつか、あなたの子ども、産むから」と打ち明けた。彼は「わかった」とぽつりと言った。残念そうな、でも、安堵したような、複雑な表情だった、と思う。きっと、自分自身も「残念そうな、でも、安堵したような」彼と同じ表情だったに、違いない。
 彼女は病院へ行き、中絶手術の手続きをとった。彼も休みをとって付き添ってくれた。平日しか病院は手術できなかったので、2日間の休みを平日にそろってとったふたりに、同僚たちが「やっぱり付き合ってたんだ」と噂しあう声が聞こえてきた。結婚に踏み切るまでは内緒にしたかったが、もうそんなことはどうでもよかった。

 手術の日がきた。
 裸になり、手術着に着替えて、手術室まで歩いて行った。ドアの前で彼に「行ってくるね」と腰のところで小さく手を振った。彼は「ごめんね」と言って、唇をかみしめた。(なんで、ごめんなんだか)そんなことを思いながら、手術台に上った。横たわったからだに、点滴の針やいろいろなものがつけられていく。ぼうっとした頭のなかで、「なんで妊娠しちゃったんだろう。生理のすぐあとは妊娠しないんじゃなかったんだ」。そんなことを考えた。
 医者が「かかる時間はちょっとですからね。大丈夫ですよ。まだ6週くらいだから。安心して」と声をかけてくれた。
 「本来なら新しいいのちが生まれるのを手伝うのが、産婦人科のお医者さんの使命じゃないですか。中絶手術なんて不本意なはずでしょう。私なんか軽蔑されていいはずなのに、やさしくしてくれて。看護婦さんもやさしかったですよ。何度も気分悪くないですかって聞いてくれて。なんか、そういうやさしい言葉が胸にせまってきて、同時におなかのなかの子どもにも謝ってました。ごめんねって」。
 準備が整うと、医者が声をかけてきた。
「麻酔しますからね。数えますよ。いち、にい、さん……」。
 ユイさんは眠りに落ちながら、熱い涙が目じりをすーっとつたっていくのを感じた。(次週に続く)