|
|
| |
FILE.1 最後の電話
【前編】母に憎まれて 06.09.05 |
|
リョウコさんは伏し目がちに、ぽつりぽつりと家族の話を始めた。
「そういえば私、誰かが待っている家に帰ったことがないんですよ。いつからかなあ。たぶん、物心がついたころからいっぺんもないかもしれない」
38歳の在宅ワーカー。服飾デザイン関係の仕事をしながら、中学生と小学生の二人の子どもを育てている。高校卒業後に就職。働きながら夜間大学に通った。
「家族とのいい思い出なんてひとつもないと思う。とびきり貧しかったわけでもなんでもないんですけどね」
よくある、近所に住むどの大人もひとつの企業に勤めているような工場町。そこで彼女は育った。二つ下の弟がいた。両親はともに工場で働いていた。
母親は、長女のリョウコさんが幼稚園にあがったころからパート勤めを始めた。一戸建ての家を持つことが、母親の夢だった。
「母は戦争孤児でした。親もきょうだいも親戚も、だれも身寄りがいなかった。戦争の後、親がいない母は奉公に出されたそうです。妹がいたらしいのですが、妹はお金持ちの養女に出されて裕福な暮らしをしていたそうです。その妹の話はよく聞かされました」
生い立ちのせいか、母親は何かにつけてひがみっぽかった。「私ばかりが損をしている」「私ばかり苦労している」というのが口癖だった。そして、その口癖は父親のせいでもあった。
「私なんかが子どものころは、よそのお父さんは夕方には家に帰ってました。今みたいに残業、残業というわけじゃなかったでしょう。でも、うちは毎日夕飯は3人。父は家にいた記憶がないですね」
父親はリョウコさんが小さいころ、工場の機械で指を切断する大ケガを負った。日常生活に支障はなかったが、そのころから酒とギャンブルにおぼれた。
かろうじて勤めには出るものの、遊びに金を使い果たし、家に生活費も入れない。夜の街で酔って暴れては、警察の世話になった。
「お父さんは、またトラ箱に入ったらしい」。黒い受話器を置きながら、母親が苦々しそうにつぶやく横顔を覚えている。「トラ箱」とは、酔っ払いを泊める留置所のようなところだった。
夜がくるのが怖かった。小学生の彼女に、安らかな夜はなかった。夜になると、夫婦げんかが始まる。互いに汚い言葉でののしりあう。父親は手こそ上げなかったが、激しい衝突がないぶん、争いに「区切り」はつかない。終わりがなかった。
掛け布団も、枕も、時には畳に寝て敷布団までかぶって、親たちの声に耳をふさいだ。今、悲しいドラマをみてもあまり泣けないのは、子どものときに一生ぶんの涙を流したからじゃないか、と思うことさえある。
「そういえば、母の笑った顔、見たことがないですね」と、リョウコさんは顔をゆがめたまま笑った。
不幸な生い立ちへの恨み、不慮の事故から荒れた生活を送るようになった夫への恨み。母親の生きづらさや葛藤は、すべて彼女に向けられた。
小学校の高学年になって、忙しい母の代わりに家事を一手に引き受けるようになったが、料理をうまく作っても、毎日きれいに玄関をはいても、何をしてもほめられたことがなかった。
「私は、母に嫌われてました。きっと。憎まれていたとさえ、思います」
リョウコさんは優秀な子どもだった。テストはいつも百点。成績は常にクラスで一番だった。教師は「どんな国立大学でも入れる」といった。内気でおとなしかったけれど、真面目で何かにつけ教師にほめられる「いい子」だった。
けれど、母親は一度でもほめたことはない。担任にほめられてもうれしそうな顔を見せなかった。逆に、「でも、積極性に欠けるでしょう」などと、娘のあら捜しをするのだった。
そのうえ、不器用な母親に比べて、彼女は手先が器用だった。弟の体育着の繕い物をしたとき、弟が「お姉ちゃんのほうがお母さんよりうまい」と言ったことがある。そのとき、自分をにらみつけた母親のきつい目を憶えている。母親は娘に嫉妬していたのだ。
一番つらい思い出は、母親に手袋を編んだときのこと。
今でも忘れない。派手な色じゃ怒るかも、あまりに地味な色ではつけないかもと、散々悩んだ挙句に選んだ薄紫の毛糸。手袋を母に差し出すと、「ふーん」と言ったきり、目もくれなかった。テレビ台に置かれた手袋は、彼女が片付けるまでずっと同じ場所にあった。
「とにかく母にほめられたい、好かれたい一心でした。冬になったので、自分で本をみながら一所懸命母の手袋を編んだんです。自転車で工場に行くときに手が冷たくないように、と思ったんだよね」
リョウコさんは子どもだった自分を慰めるように、涙声で言った。(次週に続く) |
|
|
|