FILE.3 幸せじゃない勝ち組
【前編】地蔵夫 2005.02.22

 マヤさんはニューヨーク生まれの帰国子女。英語が堪能で通訳の資格を持ち、テレビ局に勤めた経験もある。大学時代の同級生との結婚を機に、上司らに惜しまれつつ退社。彼の勤務地に移り住んだ。
「30歳までになにかのプロフェッショナルになりたい。自分はプロだと胸を張れる仕事に就きたいと思ってやってきました」。
 結婚のために最初のキャリアを棒に振ったわけではない。新たなキャリアを、マヤさん自身が求めていた。
夫もシゴトをする私を応援してくれているって、最初はそう思ってました。でも、そうじゃないことが少しずつわかってきたんです」。

 30歳、同い年の共働き夫婦。お互いの仕事を理解しつつ、悩みや達成感を共有し刺激しあいながら成長していく――。そんなイメージを、彼女は描いていた。けれど、二人で暮らすということは、シゴト以外の「日常」がある。単調で地味で、ある意味わずらわしい「家事」という営みがともなうもの。
 だが、夫はわずらわしい「日常」のほうは、共有してくれなかった
 退社後は通訳の資格を取るため、専門学校に行きながらアルバイトに励んだ。司会業、通訳などフリーの仕事を経て、マヤさんはメディア関連の会社で再度正社員になった。
「就職試験に受かったとき、本当にうれしかった。やっと自分の道が開けてきた、そう思いました。夫に一刻も早く知らせたくて、会社に電話したんです」。
「受かったよ!」
 彼女の弾んだ声をかき消すかのように、夫は低い声でつぶやいた。
「そんなことでわざわざ会社に電話してくるなよ」
 そんなことで…?
 夫に謝って電話を切ったら、涙があふれてきた。
「でも、彼はすごく忙しかったんだろうな、悪かったなって、そのときは自分を責めました。でも、夜帰宅しても私の就職の話はまったくしない。なんかおかしい。私、これからやっていけるのかなってすごく不安になったことを憶えています」
 夫に対するわだかまりを抱きつつ、新しい生活が始まった。夫の休日に合わせてスケジュールを入れられるフリーの仕事と違って、正社員は拘束される。残業し、夜10時に帰宅しても、それから夕食を作った。夫も同様に帰宅は遅かったが、早く帰宅する日があっても買い物ひとつ手伝ってくれなかった。
 ある日、午後から急に天候が崩れ雨が降った。洗濯物をベランダに干したままだ。
「急がなくっちゃ!」
 買い物袋をかかえヒールの中は水浸しで、息を切らして玄関のドアを開けた。すでに帰宅し、テレビを観ている夫がいた。開け放たれたカーテンの向こうには、濡れた洗濯物が揺れていた。ベランダ越しに振り込む雨に打たれながら、無言で取り込む。その時だ。背中で聞いた夫の言葉は、信じられないものだった。
「おい、部屋にわた埃が舞ってるぞ。おまえ、掃除してんのか。家のこと、ちゃんとやってから仕事してくれよな」
 体中に充満していた怒りを鎮めるように、さらに無言で片づけ続けた。マヤさんは声を荒げたり、感情を爆発させるタイプではない。こういった夫婦の問題も「まずは自分がどうすればいいんだろうかと考えてました」という。
「彼は結局、女性が働くことに理解がないんです。家のことは何もしたくないんですね。地蔵夫ですよ、彼は。うちじゃ、お地蔵様のようにまったく動かない。でも、そういう人と結婚しちゃったんだから仕方ないですよね。とにかく自分が頑張るしかないと、ずっとそう思ってやってきました。最初から掃除も料理も、全部私が完璧にやらなきゃと頑張りました。相手もそれを求めてきたし。でも、すごく細かいんですよ。アイロンのかけ方一つでも文句を言われる。テレビの上の埃を拭いておけ、とか」
 涙をためながら彼女は小さく笑ってつぶやいた。
 「もう、笑っちゃうしかないって感じ」次週に続く