FILE.7 カプセル〜母ひとり子ひとりの家へ嫁いで
【中編】ふたりだけしか入れないカプセル 2005.05.3

 一人目は男の子だった。長男の誕生を、かねてから「跡継ぎが欲しい」と話していた姑も、夫も、喜んだ。だが、幸せは長く続かない。
 姑は長男を独占したがった。こずえさんは元幼稚園の先生らしく幼児期からの生活リズムが大事だと感じていたので、夜9時には寝かしつけたかった。ところが、遅く帰宅した夫は寝かしつけようとしていた子どもを、毎日のように姑の部屋へ連れて行く。その間、彼女は2階で一人ぼっちだ。12時、遅いときは1時や2時までも夜更かしさせた。彼女がたしなめると、「おまえはオレに子どもを会わせないつもりか!」と怒鳴った。
 子どもが大きくなると、夫は子どもに向けてこずえさんの悪態をつくようになった。しかも、非常につまらないことで。
 ある日、昼にビーフンとサラダを作って食べさせていたら、夜勤明けで起きてきた夫が怒り始めた。
 「“なんだこの料理は! 肉が入ってないじゃないか、そんな粗末なものを食べさせているのか!”と。お前は母親失格だと怒鳴るんです。そのうえ、3歳になったばかりの子どもに、“お前のママの作ったものなんて食べるな! もう、これからはおばあちゃんの料理を食べよう”ってこんこんと言って聞かせるんです」。
 夫は、母親に向かって手を伸ばし泣きわめく長男をはがい絞めにして、離さない。どんなときも、夫がこずえさんから引き剥がそうとすればするほど、長男は母である彼女を求めてきた。

 実家にはもろもろの惨状は話せなかった。反対を押し切って結婚したのは自分だ。戻るに戻れない。結婚を反対されたことを根に持っていた夫は、彼女の両親を家に呼ぶことも許さなかった。
 こずえさんはうつ状態になった。
 身勝手で強引なセックスで二人目を妊娠してしまい、いっそう不安定になったのだった。
 自殺を考えたのも一度や二度ではない。ベランダの手すりによじのぼったことがある。リストカット(自傷行為)に及ぶようになった。見つけると夫は勝ち誇ったように言った。「その程度で死ぬもんか。死ぬときは外で死ね」と。子どもを起こし、血を流すこずえさんの姿を見せた。「これがお前のママだぞ。よく見ておけ。ママは狂ってるんだ」。

 狂っていたのは、いったいどちらだろう。
 こずえさんは「姑との確執」と表現したが、原因は明らかに夫にあるように思える。母親と妻との間で板ばさみになり苦悩した様子は微塵もない。姑と嫁をうまく取り持とうと努力しているようには到底思えないのだ。
 「お前とお袋が一緒にいるとけんかになるから俺が間に入ってるんだといいながら、常にお袋のほうが正しい、お前が間違っているとしか言いませんでした。夫と姑は恐ろしいくらい一心同体でした」。

 加えて、夫には医者にあるまじき言動が目立つ。
 早期の流産を妻のせいだと叫ぶ。切迫早産を「たかが出血くらいで」とののしる。子どもを夜更かしさせる。こずえさんによると、乳児期に赤ん坊が夜泣きをすると、「いいから、ミルク飲ませろ!」と叫んだという。病院でこずえさんがみた「小児科医」の顔になった夫は、まったく別人のように穏やかで紳士的だった。
 子どもは泣いたからといって、むやみにミルクを飲ませないでくださいね。
 正しい生活リズムをつけるのは小さいうちから大切ですよ。
 育児はおかあさんだけに任せず夫婦足並みそろえて、が基本ですよ。
 「そういうことを病院ではにこにこしながら話してましたね。病院ではいい先生で通ってました。家でその反動がきたのでしょうか。年下の私には、彼のそんなストレスをフォローしてあげられる力がなかったのかもしれません」。
 外では穏やかな小児科医。家ではキレると、目がすわり、叫ぶ声は裏返る。家中妻を追い掛け回し、捕まえては罵声を浴びせていたという。一度トイレで泣いていたら、「俺を膀胱炎にする気か!」とトイレのドアを壊してしまった。夫は彼女に、泣く場所さえ与えなかった。
 どんな患者とも冷静に温かい態度で接しなければならない「医者」という職業ゆえのストレス。こずえさんは夫が表の社会には決して見せない異常な態度を、そう理解しようとしていた。自分の力が足らないせいだと受け取ろうとした。罵詈雑言を浴びせられても、夫とは違う人格が言わせていることと思い込もうとした。彼女には、何かアクシデントが起こると、自分が悪いのでは?と最初に自分を責める生真面目さ、やさしさがある。

 だが、世の中の医者の多くは二重人格ではない。人格者もたくさんいるではないか。この夫の生育歴は、どんなものだったのだろう。
 結婚前に夫から聞いた話では、姑は、夫が大学の医学部へ入学した年に離婚している。それまでもほぼ別居状態だった。何が離婚の原因なのか夫は語っていない。ただ、勉強ができた夫を姑がいかに自慢にし、支えにして生きてきたかは感じられた。夫も母親の期待に応えよう、と勉強だけをしてきたようだ。遊びや趣味といったこととは無縁な男だった。
 「そういえば」
 こずえさんは口を開いた。母子ともに、他人をまったく信用しないところがあった。姑からは「家に近づく人間はだれでも泥棒だと思え」といわれた。実際に、家屋の修理で工務店の人が来たとき、その人に聞こえるような大声で、「うちの中に入れたらずっと見張ってなきゃダメだよ!」と叫び、恥ずかしい思いをしたことがある。近所付き合いは一切しない家だった。夫に友人らしき人を紹介されたこともない。
 姑と夫は、こずえさんが表現したように「恐ろしいほどに一心同体」だったのだろう。何かの原因で父親が家族という単位からストンと抜け落ち、母と息子は二人だけが入れるカプセルの中で濃密な時間を紡いできた。
 けれど「跡継ぎが欲しい」という母の希望を叶えるため、44歳の息子は結婚した。決して信用しなかった「他人」を、彼らのカプセル「家」の中に入れてしまった。
 何も知らずに、二人だけしか入れるはずがないカプセルに入ってしまった。それが、こずえさんだったのかもしれない。
次週に続く)